不安や恐怖は未知な対象や自分の予測の範囲を超えた対象に向けられます。

鋭い牙や爪を持つ動物も、その動物が何を思い、何をこちらに伝えたいのかが分かれば、それほど怖くはないのかもしれませんよね。


コミュニケーション=意思疎通での障壁は、勝手な予測と相手の思いがけない反応にあるのだと思う。


失敗が何度でも許されるならば、勝手な予測などしないのだけれど、
失敗が重なる事が、取り返しのつかない事になることもあるから、少しややこしい。
やはり、ある程度、予測しなければいけない。

所謂、空気を読む ということになります。

ただ、空気を読む といっても、

英語で書かれた本は、日本語の知識だけではとうてい読めないのと同じで、

その空気にとってのコミュニケーションツールが何かもわからなければ、読もうとしても、ただ勝手な予測や解釈に過ぎなくなります。


予測による、try & error  or   success

挑戦と体験(予測通りor 予測と違う)

を、繰り返すのは、どうしても必要らしい。


コミュニケーションは習ったところで、最初からパーフェクトに出来るというほうが、まず難しく、

というより、誰しも完璧な人はいないというのが、真理なのだと思います。


ただ、大切なのは、コミュニケーションにおけるその『体験』をどう捉えて、どんな『経験』として、積み上げられるか。


例えば、自分が思い描いた予測とは異なった体験をした時に、『予測が外れた』自分の範囲を超えた貴重な体験。と捉える事が出来たならば、次回の挑戦にまた活用が出来ます。

とまぁ、


失敗はマイナスじゃなくて、むしろプラス!

そもそも、失敗なんて無いんだ!


というような事は、よく目にもしますし耳にもします。



それが出来たら何の苦労もしませんよね。

どんな状況でも、その渦中にいる時は、どんな言葉もどんなアドバイスも『分かるけど出来ない』が正直な所だと思います。


『予測とは異なる体験』に段々とうっすらと恐怖や不安といったものが付き纏うようになります。

いつしか、『体験』自体が恐怖や不安になってしまっているのかもしれません。


という事はですよ、


コミュニケーションの障壁は、勝手な予測と相手の反応でなく、自らの『体験』なのかもしれません。


では、障壁となる体験は悪なのか、


その瞬間の体験には良し悪しはなく、その体験をどのような経験として振り分けるかで良し悪しは変わります。



体験は自らの身体を通して行われます。

事象 と 体験 の間には、自分の体が介在します。

身体がどんな状態で、その体験をするのかで、その体験がどんな経験になるかが、変わるとも言えると思います。


身体の調子がいい時にする体験


身体の調子を崩している時にする体験

これら二つの体験によって蓄積される『経験』

には、ちょっとした差が生まれます。



身体の調子を取り戻しながら、体験を繰り返す事で、過去の『体験』のちょっとした誤解に気がつく時が来るかもしれません。


不安や恐怖にもちょっとっした誤解があったかもしれません。

そこに気がつけたなら、コミュニケーションにおける、ツールや対象はそんなにも問題ではなくなるかもしれませんよね照れ