こんにちは・・(^◇^)
やっと昼寝して、瞳孔を開かれてから、眩しさが消えつつあります・・(^◇^)
ますます訪ねたくなる東大寺と言うサイトを見つけましたので、それに加筆しながら、シリーズでアップしますね・・(^◇^)
ー異なる時代が見事に調和した三月堂ー
法華堂(三月堂)は東大寺の中で最も古い建築物である。
聖武天皇は728年、1歳に満たずに亡くなった基親王の菩提を弔うため、金鐘山房を建立し、9人の僧侶を止住させ、この中の1人が後に初代別当となる良弁さんです。
金鐘山房はその後、東大寺の前身寺院とされる金鐘寺として発展し、最先端の「華厳経」研究の場となりました。
寺伝によれば、法華堂は、この金鐘寺の遺構と伝わり740年から747年ごろに建立されたと考えられ、東大寺の創建より遡るお堂なのです。
本尊は不空羂索観音です。
法華堂の屋根を、三昧堂(四月堂)のある階段側から眺めたことはおありでしょうか?。
修学旅行生は、必ず、石段を上がった広場で、ガイドの説明を受けていますよね。
欄干の並びに目を凝らすと、真ん中よりやや右から、一段低くなっています。
実はこの法華堂は、元々は2つの建物で、右が檜皮葺きの礼堂、左が瓦葺きの本堂(正堂)だったものを鎌倉時代に、礼堂が重源によって再建され、その後さらに、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつなぎ、現在のような1棟になったようですね。
向かって左が奈良時代、右が鎌倉時代だが、時代の異なる様式が見事に調和し、美しい佇まいを見せている。
三月堂の入口は、南にありますが、この入口前に大きな石灯籠ががありますが、1180年の兵火で古都奈良の文化財の東大寺がほとんど灰塵に化した時に重源が陳和卿を呼んだ時にともに来て、石大工として、来朝し、日本に帰化して、再興工事も努めたんですね。
東大寺に限って言うと南大門は、奈良仏師慶派の運慶工房が造ったとされる金剛力士像ばかりが脚光を浴び、運慶、快慶の説明を受けますが、その裏側(大仏殿側)には、この人が造ったとされる石獅子があるのをご存知でしょうか?
外が暗くなったのと、サンタ猫の鳴き声が消えたので、探すと広縁の座椅子の上で、爆睡中です・・(^◇^)
暴れつかれたのでしょうね・・(^◇^)
今日も良い日でありますように・・(^◇^)
やっと昼寝して、瞳孔を開かれてから、眩しさが消えつつあります・・(^◇^)
ますます訪ねたくなる東大寺と言うサイトを見つけましたので、それに加筆しながら、シリーズでアップしますね・・(^◇^)
ー異なる時代が見事に調和した三月堂ー

法華堂(三月堂)は東大寺の中で最も古い建築物である。
聖武天皇は728年、1歳に満たずに亡くなった基親王の菩提を弔うため、金鐘山房を建立し、9人の僧侶を止住させ、この中の1人が後に初代別当となる良弁さんです。
金鐘山房はその後、東大寺の前身寺院とされる金鐘寺として発展し、最先端の「華厳経」研究の場となりました。
寺伝によれば、法華堂は、この金鐘寺の遺構と伝わり740年から747年ごろに建立されたと考えられ、東大寺の創建より遡るお堂なのです。
本尊は不空羂索観音です。
法華堂の屋根を、三昧堂(四月堂)のある階段側から眺めたことはおありでしょうか?。

修学旅行生は、必ず、石段を上がった広場で、ガイドの説明を受けていますよね。
欄干の並びに目を凝らすと、真ん中よりやや右から、一段低くなっています。
実はこの法華堂は、元々は2つの建物で、右が檜皮葺きの礼堂、左が瓦葺きの本堂(正堂)だったものを鎌倉時代に、礼堂が重源によって再建され、その後さらに、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつなぎ、現在のような1棟になったようですね。
向かって左が奈良時代、右が鎌倉時代だが、時代の異なる様式が見事に調和し、美しい佇まいを見せている。
三月堂の入口は、南にありますが、この入口前に大きな石灯籠ががありますが、1180年の兵火で古都奈良の文化財の東大寺がほとんど灰塵に化した時に重源が陳和卿を呼んだ時にともに来て、石大工として、来朝し、日本に帰化して、再興工事も努めたんですね。

東大寺に限って言うと南大門は、奈良仏師慶派の運慶工房が造ったとされる金剛力士像ばかりが脚光を浴び、運慶、快慶の説明を受けますが、その裏側(大仏殿側)には、この人が造ったとされる石獅子があるのをご存知でしょうか?
外が暗くなったのと、サンタ猫の鳴き声が消えたので、探すと広縁の座椅子の上で、爆睡中です・・(^◇^)
暴れつかれたのでしょうね・・(^◇^)
今日も良い日でありますように・・(^◇^)