遣隋使と遣唐使:日本における貿易の始まり | 高橋翻訳事務所スタッフリレーブログ

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こんにちは。高橋翻訳事務所(http://goo.gl/25cZv)契約書・法律文書翻訳担当の佐々木と申します。

契約書、法律文書今回のテーマは遣隋使と遣唐使についてです。

日本書紀によると、日本が公式に貿易(trade)を始めたのは607年の遣隋使で、小野妹子が国書を持参して隋に派遣されました。その書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言が書かれていたのは有名なエピソードです。国書を読んだ皇帝の燿帝は立腹したと伝えられていますが、聖徳太子が自らを「天子」と名乗ったことに対して怒りを表したという説もあります。当時の隋は文化や文明の水準がアジアでも突出していましたが、日本は始めから対等な立場で国交を結ぼうとした姿勢が見られます。遣隋使は618年に隋が滅びるまで派遣され、隋の政治制度や税制などを学びました。

619年に唐が建国されると名称が遣唐使に変わり、その後200年以上も続きました。遣唐使の目的は唐の先進技術や文化を取り入れることで、最澄や空海など多くの僧も唐へ渡り、日本への仏教の普及に貢献しました。記録によると、遣唐使は1度に4艘の船で派遣されますが、そのうちの2艘は遭難するという危険な旅でした。また、船を建造するために国家予算(government budget)の3分の1を支出していたと言われています。894年に菅原道真が遣唐使を停止しました。唐の弱体化が理由に挙げられていますが、唐の文化を十分に吸収したため、これ以上の費用をかけ、危険を冒してまで派遣する必要はないとの判断もあったとされています。

遣隋使、遣唐使の派遣には莫大な費用と時間がかかり、そして命がけで行われていました。しかし、それだけの犠牲を払ってでも学ぼうという覚悟は、勤勉で勉強好きな我々日本人の気質を表しているのではないでしょうか。


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経済分野全般翻訳を担当しています。大学在学中に経済学を専攻していた知識を基に、日頃からさまざまなメディアを活用して新しい情報の収集を続けています。「経済」というと、分かりにくい、難しいというイメージがありますが、専門用語には注釈をつけるなど、違和感なく、スムーズに読むことのできる表現を心がけています。
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