夜更けに目が覚めて
震えるかと思えば、汗に濡れる日もある。
ここ一週間ほど、変化する。
季節も夏からは遠ざかり、すでに秋も深まる頃。
紅葉も報じられ、暖冬か、寒さが気になる冬支度。
一昨日は(10月28日)、一日としては、多くのことがありました。
久しぶりにお寿司を頬張り、夕食前後が楽に過ごせた。
食事の支度、あとか片づけは一切無し。
おかげで目一杯さぼることができ、時間を思い切り自由にできた。
と思ったが、相変わらず無駄の多い生活者、いっこうに改善されず、少しは計画通りに行きたい。
10月29日(日)の早朝、つまり午前0時ちょっと過ぎ、果して見えるかと、そっと玄関の扉を開け、真っ暗な夜空を見上げて見た。
あちこち目玉を動かし、丸くなっている天体を探した。
お目当ては、もちろん、満月。
玄関から身を乗り出し、さらに天上を探した。
明るく丸い姿と、周辺の雲が薄く輝き、さらに満月が美しく見えた。
薄い雲と満月がおりなす、天界のショー、ああここは地球上なのに、まるで月世界をも含んだ世の中のように感じた。
すぐそこにあるようで、実際は遥か彼方にあるのに、錯覚を感じた。
さて、当日の午前中は、ネットの中継を見て過ごした。
講演会で「超越数とグロタンディークの見果てぬ夢」。
タイトルを見た瞬間、学生時代の思い出がよみがえってきた。
超越数、聞きれないような言葉だが、瞬時にある不等式が浮かんだ。
しかし、それから先は思い出せず、ただ講演者の言葉に集中しようと耳をそばだてた。
しかし、内容は高度で、グロタンディークの思想にはついていけないと観念した。
一点だけ、この数学者の頭では、論理だててクリアにすべて把握できてはいないが、直感的なある種感覚的に捉えていると思われた。
何だか知ったかぶりのようで、実際その通りなのだが、自分の頭の中では、何となくおぼろげながら感じられるのは確かだ。
午後は、姉とふたりで毎週の習慣で、図書館に行き、図書を返却して予約本を受け取った。
三冊返し、二冊受け取り、ウキウキしながら帰宅すると、突然、姉が「お寿司を取ろう」と提案してきた。
ふたつ返事で同意し、早速電話することにした。
注文は、「助六とわらび餅」、10パーセント引きのおかげで、安くてすむ。
年に何回か割引の券が届き、大分助かっている。
最近はテレビを見る機会が減り、しかし、よく見るのは「大下容子のワイドスクランブル」、コメンテーターは毎回日替わりで同じメンンバーだが、その中でも、番組司会の佐々木亮太アナウンサーには、時々、感心させられる。
どちらが解説者かと間違うほどに、物知りのようだ。
夕食を済ませると、余った時間を利用して、新聞に目を通す。
すると谷川浩司さんの書評が目に入り、「藤井聡太の指は震えない」とあった。
以前から将棋には関心はあったが、棋力は全くさえないアマチュア初段にも及ばないが、見るのは好きだ。
ゲームごとには、興味はあっても、囲碁、オセロ、トランプはじめ、麻雀に至っても負け越し、とにかく、ゲームの女神には見放されている。
しかし、ゲームを楽しめれば、それでよしと、勝手に思っている。
10月30日(月)の早朝、午前0時頃も、運よく満月に出会えた。
運の良い自分を不思議とも思い、世界の中の騒動やこの格差社会において、恵まれているとの想いと、日々を生きるのに精一杯の人もいることに対し、満月の美しさと暗黒の世界の同居に、後ろめたさと運と不運の非情さを知らされる。
新聞報道では「袴田巌」さんの再審記事が、幾ページにもわたって特集され、この不運は、一応しあわせの世界に居る自分には、放置してよいものかと憤りを感じると共に、人々も無関心でいてよいのかと思う。
満月の存在と冤罪が、この日常にあることに、責任の一端は誰にあるのかと自問すると、毎日自由にしあわせに生きている自分にもあると思えてしまう。
自由があり、そこそこ欲求も満たされ、最低限生きることにも困らない自分、一方でこれらがままならない人々の存在は、人間に与えられた大いなる課題と思えてしまう。
満月を誰もが美しいと言える日が来ることを願いながら、今日も自由を謳歌し、少しは人間の課題も考えてみたい。
<今日の良い出来事>
連日、満月を見ることができ、しあわせと幸運を思った。
朝飯、昼飯、夜飯にありつけて、しあわせをかみしめた。
それでは、いったい誰のおかげで、ここまで生きてこられたのか、夜更けに考えてみてはどうか、提案したい。
答はこれだとわかるでしょうか。
自分には即答できないかもしれない。
それとも、明快な答えを誰かは知っているかもしれない。
それは誰。
難問か奇問か単純明快か、挑戦してみてください。