いつのまにか、映画ファンに
むかしからテレビ、ラジオに育てられ、娯楽、勉学、情報にと利用してきた。
思い出も一杯ある。
ニュース、ドラマ、スポーツや歴史的場面の生中継、ドキュメンタリー、教育教養番組、クイズ、娯楽と、様々ある。
今でも習慣は変わらず、一時はテレビの悪口も言われたが、生き残って視聴されている。
利用の仕方次第で、便利、利器として用いられるも、ヘタに誰かの宣伝のために用いられれば、大変な事態も想像される。
我が家では、善良な視聴者と言うことで、メディアを一応信頼して、しかし、ヘイトスピーチなどにはできるだけ気を付けつつ、楽しんでいる。
この暑さの中、8月のはじめには、続けざまに3本の映画を見る機会があり、さながら我が家は映画劇場のようだった。
もちろん、無料、ただ電気代が少々かかるだけ、テレビ購入の初期投資もあるが、基本的にはタダと言ってよいだろう。
「羊たちの沈黙」、「招かれざる客」、「シェーン」と、それぞれジャンルの違う、名画と言ってよいかもしれない。
何分、専門家でもなく、ただの無賃映画ファンで、好き勝手に見ては評論家でもないのに、ああだこうだと感想を言い張っている。
これは個人プレーでの話で、家族がいる中、ひとり吠えては迷惑がられている。
精神科医の和田秀樹氏も、テレビにむかいながら、同じことをしているらしい。
付き合いはないが、著書を通して多少の事を知った。
ここで一番古い作品は、「シェーン」で、あの最後のシーンが今でも思い出すたびに、あの後どうなったかと余韻が残る。今でも強迫的はないが、目に焼き付ている。
「招かれざる客」、先日、放送大学の番組中で、この映画を見ていると、放送大学の教授が様々な視点から解説、批評をして、幾分かの詳細まで言及していた。
ファミリー・メロドラマと言って、戦後の間もない頃のアメリカ社会を分析的に見ながら、作品の特徴などを講義していた。
当時の映画、テレビ界の様子、「名犬ラッシー」、「パパは何でも知っている」、「うちのママは世界一」などをあげながら、世相、風潮を話していた。,
懐かしいとも、若かったり、脳裏をかすめ、それだけ印象も深くインパクトも大きかったのでしょう。
果たして自分の今の位置から、半世紀後の今の状況を、どう感じているか、適切に表現できるかというと自信がない。
半世紀、と言えば遠く感じられるか、はたまた短く思われるか、それぞれでしょうが、現代の都市空間を見れば、昔が懐かしくいかにも古風で、洋服と着物との対比のような感覚を思ってしまう。
表現は適切ではなくとも、違いの大きさ、同じ日本とも思えないと、大げさに感じる。
「戦場にかける橋」、「名もなく貧しく美しく」、「世界残酷物語」と、現代と並べてみると、だいぶ違うと思ってしまう。
現代にアインシュタインがタイムスリップしたら、第一声は何というか、想像すると何だかおかしみを感じてしまう。
はたして、スマホを見て、「ワンダフル」ではなく「オオ、マイゴッド」と驚嘆するかもしれない。
鉄腕アトムも、時代設定ではとうに実現されているはずで、しかし、いまだに存在していない。
さすがの手塚治虫さんも、預言は不確実性の中だった。
この先、いったいどこまで変化していくのか、想像不可能に思う。
技術革新とも言われる現代、どこまで人類の未来に輝かしい軌跡を残すか、どうも不安が先行して、最悪、人類の滅亡が視界に入ってきてしまう。
あくまでも楽観的に期待するなら、夢も現実化するかもしれない。
ぜひ、こちらのほうを願いたい。
<今日の良い出来事>
恒例の「納涼夫婦放談」を聞きながら、音楽を楽しむことができた。
山下達郎、竹内まりや、ご夫婦の軽快なトークに、おふたりの関係のご様子が伝わってくるようだった。
いつまでも、そろって音楽家の道を歩んでください。
「紙の月」、宮沢りえさんの映画も、数日にわたって中断しては、つなぎ合わせながら見た。
なにしろ、この年齢では、ぶっ通しで見るのが大変で、時々、変則的な視聴で、最後まで見とどけている。
やれやれ、不便かもしれないが、苦肉の策で乗り切っている。