今年も母の命日

 

6月の梅雨時、暑さも繰り返しながら、台風もやってくる。

暑中見舞いも最近は滞る中、返事の下書きを書いてはボツにしたり。

 

時に思い出すのも、母の顔や割烹着のいでたち。

真っ白い姿で店を切り盛り、父とふたり、魚介類を握り、シャリを炊く。

 

50年以上の時間と10年未満、父は遠くの記憶に母はまだ近くいる。

 

両親は、今思えば必死に子育て、食べるため、生命を維持、絶やさぬよう生きてきたのだろうか。

何分、学校中退以後、特に苦労もなく、ある時は、ただ惰性で無為に暮らし、時に病に翻弄されたり、幾分か苦節も味わい、高齢者の仲間入り迄生きてきた。

 

ただ生きるだけでも、大変な人もある中、生物学的心配はほとんどなかった。

食う寝る出す、両親のお陰で明日をも困ると言った事態はなかった。

 

少しだけあげるなら、疾患、診断上は精神だが、ほとんど困ることは無かったが、しかし、神様はバランスよく苦労の土産も置いていた。

 

前半と後半、後半は今でも苦し紛れの時期もあったり、たやすく何事も過ぎる前半と、皆同じと言い聞かせ、踏ん張ることもある。

 

両親の苦労など、知らずに生きてきたが、戦前、戦中、戦後を通り過ぎてきた人間は、自分とは幾分か違うのかと考え込む時がある。

 

被弾した父、戦時の食べ物の苦労話を聞くと、自分の現在がいかに恵まれ、地球上の場所日本も幸運だったと、はたと考え込んだりする。

 

 

生前、家の建て替え、墓の建立、財産の管理と、子のためと思えて仕方ない。

 

特に父を失った母は、孤軍奮闘、苦労の話などほとんど聞く機会もなかった。

 

しかし、少しだけ人間関係では不満や愚痴のひとつはあったようで、母の口から聞いた覚えがある。

 

誰にも悩み、苦労はあるものと言うが、戦後派の自分は恵まれた道を歩んできたと思っている。

しかし、様々、人並みの問題にも直面し、どうにかやってこれた。

 

今は残された寿命をどう生きるか、フィナーレをどう迎えるかが、差し当たっての課題だ。

両親を見てきて、独りよがりだけに生きるのは、避けたいと思っている。

最後の決算を、今まさに迎えるのを、ジタバタせず、終了したい。

 

「名もなく、貧しく、美しく」

と、映画のような人生もよかろう。

常々、理想は無理でも、そうありたいと思っている。。

 

<今日の良い出来事>

命日の翌日、久しぶりにメロンを食べた。

めったにない事なので、欲張って皮が薄くなるまでほじくってしまった。

皮の厚さ、数ミリと、まるで飢饉、食糧難のような事態みたいだ。

ついで、寿司のランチを注文し、おいしくいただいた。

まるで天国、とチョットした昼寝もできて、良い一日だった。