中退以来、50年
朝日も寝静まる午前1時ごろ、ひょっこりと起き上がって、朝のルーティンをこなす。
と言っても、ただ顔を水で濡らすだけの簡単な作業。
タオルを用意し、洗面器に顔を突っ込み、ジャブジャブ。
今日は気温も心地よい。
というよりも、少し肌寒い。
ここ数日の間に、猛暑や夏日が続く、夏真っ盛りの様相が、ここでまた寒暖が返る。
熱くなると、昔は夏休みが来ると喜んだものだ。
それが、はや半世紀。
今では、ヨボヨボ、50年前と比較しての話で、うっかりすると、朝起きたら目の前が天国だったと、本当に起きかねない年に、健康寿命も満了しかねない。
しかし、寿命の残りがまだあるようで、こうして今日も朝日が迎えられそうだ。
高校中退後は、ただ無為に過ごす日々が続き、今でいうひきこもりのはしりをやっていた。
でも、ひと言も叱られたりした覚えがない。
親にも家族にも、あまりにも寛大、仏様にしても度が過ぎるくらいだ。
以来、苦節50年とは言えず、ただ好き放題、家族任せと、罰が当たりそうな日常を送っていた。
今思うと、親はシカと見ていたのだと勝手に思う。
食べて、寝て、呼吸して、排泄して、アメーバと比較しても引けも取らないくらいの、生物の義務を果たしている。
表現は多少奇妙だが、事実は事実だ。
こうして今では、何とか生きるだけのことは、している。
しかし、生物でも人間でもあるとも言いながら、何ひとつ社会で生きながら、生産、貢献に携わってこなかった。
いくら自分でも、引け目ぐらいは感じていた。
どうにか、選挙ぐらいは、義務いや権利は果たしていた。
ただ食うだけでは、格好もつかない。
生ける屍では、いくら風来坊でも気が済まない。
ここに来て、やっと人として目覚めるという事態にぶち当たった。
ただ生きる、それでは食って排泄する機械ではないか。
人間社会では、機械のごとくただ生きるだけではいけないか。
反論もある。
なら、なぜこの世に生を受けた。
義務を果たすためか。
生きた証を残すためか。
何がしかを生産し、人に貢献するためか。
人は「生きる意味」を背負って生きている、と言っても、その意味とやらが分からない。
まるで哲学など無縁な世界で生きてきた者だが、あと余命わずかに迫ると、余計なことに煩わされるのか。
しかし、人は人。
他人はどうであれ、自分は自分の道を歩めばいいだけで、欲望にまみれて生きるか、禁欲的に生きるかは、一応自由であり、ここえきて、自分というものを自覚した瞬間なのだろうか。
いまさら、アリストテレスなど始める気はないが、ただ気になってしまう自分は否定できない。
遠回りして来たことが、かえってこういう事態を招いたか、残りの人生をどう生きるかという課題に直面した。
NHKのテレビ番組「100分de名著」の影響も受け、今後の「生きる意味」の探求を続けていきたい。
ここで、さらにひと言、平和で時間と金があるお陰で、この様な人生の選択ができることに、感謝したい。
<今日の良い出来事>
深夜に音楽のお楽しみ。
映画音楽はよく聞くが、以前、NHKで録音したMDを再生している。
いずれも、聞いたことがある曲ばかりで、懐かしさと安堵感が漂う。
1960年代の曲
「白い恋人たち」、「私生活」、「華麗なる賭け」の「風のささやき」、「チキチキバンバン」、「男と女」、「日曜はだめよ」、「世界残酷物語」から「モア」、「シャレード」、「ロシアより愛をこめて」、「ロミオとジュリエット」、「甘い生活」、「雨にぬれても」
傍らに、もう一人いれば、さらにこころ和むところだが。