遠野放浪記 2014.08.19.-05 真・遠野物語 | 真・遠野物語2

真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

遠野物語は日本民俗学の黎明期における作品のひとつだとされており、文学史・民俗史の双方に残した足跡の大きさは計り知れない。


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柳田國男は1909年8月22日、上野駅23時発の汽車に乗り東北を目指した。翌日到着した花巻駅で人力車に乗り換え、矢沢・土沢・宮守・鱒沢といった宿場を経て、20時を回る頃に遠野に到着した。実に21時間をかけての長旅である。

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8月24日には遠野物語の語り手である佐々木喜善宅を訪ねるが、何と喜善はこのとき東京へ出ており、不在だった。遠野物語の取材がすれ違いから始まっていたとは、何とも言えない話である……。

柳田國男はこの日の夜に伊能嘉矩をも訪ねているが、嘉矩も留守。東京を発つ前に予めアポを取っておかなかったのが悔やまれたことだろう。


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佐々木喜善、伊能嘉矩の両氏が不在だったことで予定が空いてしまった柳田國男は、一日暇に過ごすのも何なのでと、土淵村役場の助役を務めていた北川清に話を聞いている。そして清の息子である北川真澄が附馬牛小学校で教師をしていたという縁で、翌25日に柳田國男は附馬牛を訪ねることになるのである。

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附馬牛入りした柳田國男はまず村役場を訪ね、書記の末崎子太郎、附馬牛小学校教師の福田恵次郎という人物から附馬牛の歴史について教えを受けた。そしてその根源ともいえる東禅寺跡を訪ね、帰り道に菅原神社を通り掛かるのだが、此処で偶然にも例大祭の鹿踊りを目撃。未知の地で出会った祭りに感銘を受け、日が暮れる頃になって帰途に就いたのである。

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遠野に戻った柳田國男は、26日にようやく伊能嘉矩の家で本人に会うことが出来(前夜に柳田國男が宿泊している高善旅館に伊能嘉矩が訪ねて来たが夜遅かったためソデにされている)、阿曽沼氏の歴史やオシラサマ・雨風祭といった遠野の生活に根差す風習について教えを受けた。

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27日には、伊能嘉矩が再び高善旅館を訪ね、午前中はふたりで南部氏の男爵邸を見学したり、古文書や古い宝物を見学。昼過ぎに柳田國男は人力車に乗り、愛宕橋から小峠(千葉家が聳えるあの峠道)を越え、日詰街道から盛岡へと向かった。

余談だが俺は日詰街道も少し歩いたことがあり、あの道もまた遠野物語の成立に深く所縁がある場所だと思うと、感慨深いものである。


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柳田國男は盛岡から遥々秋田まで旅を続け、8月31日になってようやく東京へ帰ったとされている。横手や五色温泉にも立ち寄っていることから、たまには彼も息抜きしたかったのだと思われる。

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なお、柳田國男が附馬牛を旅した日程には諸説あり、ルートもあまりはっきりとしたことはわかっていないようだ。この忍峠も附馬牛入りするときに通ったという説もあれば、帰りに通ったという説もある。しかしいずれにしても、この道が遠野物語の成立までの道標であることに違いは無い。

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集落からだいぶ高いところまで上って来て、道は砂利道に変わった

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しかし百年前は、もっと険しい道として旅人の前に立ちはだかっていたのだろう。それでも当時はこの道がほぼ唯一の交通路だったため、多くの人が厳しさに耐えて歩いたのだ。

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現在は、土淵から福泉寺を経由して附馬牛に至る道が完成しているし、松崎からでも母也明神を経て安居台から附馬牛に入る道がある。かつては栄光の始まりだった忍峠も、今や通る人は殆どいない。

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僅かに車の轍が残っているが、その上には雑草が生い茂り、時の流れの無情さを示している。

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遠野物語のファンにとっては、忍峠を訪れずして遠野を語るなかれ、である。この道が整備されればきっと多くの人が訪れるようになるのだろうが、たった独りで埋もれてしまった時代の上に立ち、遠野物語以前の遠野に思いを馳せるのも乙なものだ。

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このあたりが忍峠の頂上だろうか。当時はもう少し整備された道であったろうから、遥か彼方の山々が拝めたのかもしれない。柳田國男は此処でどのような風景を見て、どのようなことを考えたのだろうか。

今、遠野の名前を世に知らしめた偉大なる男と同じ道を歩んでいることに、俺は喜びを禁じ得ず、この溢れ出る感情を一刻も早く誰かに理解して欲しいのだが、周囲には悲しいことに誰もいなかった。