どれだけ歩いただろうか、何度目かの川渡りに「第十二号橋」という古い橋が見えて来た。
一ノ渡から琴畑へ向かう道にあったのが「琴畑第一号橋」だから、名前があるもの・ないものを合わせて、これが12本目の橋だということだろうか(今度はひとつひとつチェックしながら歩いてみよう)。
橋桁が朽ちかけたこの小さな橋が、俺が記憶している限り、琴畑林道で見た最後の人工物である。
第十二号橋を渡ると、其処で明らかに空気が変わったことを感じる。冷たい風が俺の周りを悪戯っぽく吹き抜け、背筋がぞくっとするのを感じる。
不動堂や三叉路でも「境界線の空気」を感じたが、此処は取り分けはっきりとそれがある。
林道は不思議と明るく、時折ざあっと吹く風に木の葉が舞い、ゆっくりと揺蕩いながら地面に落ちる。森の木々が、そろそろ冬支度をしようかな……と会話をしているように見える。
道は広いが、険しさは一気に増し、所々に湧いている沢を直接踏み越えなければ先に進むことが出来ない場所もある。
此処は明らかに、人知を超越した場所。
その山の麓には、マヨヒガという古い家があると伝えられている。かつてこのあたりで道に迷った人が、およそこのような山奥には不釣り合いな豪邸を見付けたという――或いは朽ち果てる寸前の廃屋だったという話もある。訪れた人に富を齎すとも、迷いの世界に引きずり込むとも言われている。
マヨヒガの存在は言わずもがな、遠野物語によって全国に広められた。冒険心を痛く刺激する異界の存在は、平成の世にあっても未だ、俺のような無謀な旅人をこの世の果てに吸い寄せるのである。
遠野物語の草稿には、何とマヨヒガの所在地を記した地図が付いていたそうだ。手に入っていたら今回の旅も非常に楽になっただろうが、まあ自分の気の向く侭に探すのが楽しいのである。
こんなに深い森の中にも時たま、何もない広場のようなところが出現する。その度に、もしかしたらマヨヒガは此処にあったのかも……と考えたりもする。
元々、このあたりでは金が採掘されたそうで、一説にはマヨヒガは、俄かに手に入れた財産を街の役人などから隠すために、山奥に隠れ住んだ人が建てた家だとも言われている。遠野物語は、一見荒唐無稽な類の話であっても、その元になる出来事が必ずあったのだと思う。なので、マヨヒガも必ずしも言い伝え通りの形ではないにしても、何処かにその存在が今も残っていると期待出来るのだ。
ただしそう考えると、マヨヒガの伝説は全く違う角度から考察することも出来る。
マヨヒガの存在を下界に伝えた人は、最後までマヨヒガの主と会うことなく、家財を持ち帰って裕福な暮らしをしたことになっている。しかしもしも、山を降りる前にマヨヒガの主と出会ってしまったら――?
遠野の闇は、通り一遍の遠野ファンが思っているよりも遥かに深い。曲がる道ひとつ違えば、遠野物語は日本の恐怖の象徴として我々の前に存在していたかもしれないのだ。
琴畑を出発してからおよそ3時間、ずっと厳しい上り坂だった林道が急に平坦になった。この場所がまた「何かと何かの境界線」であることを感じる。その先は長い下り坂になっているのが見えるので、その直感は正しいだろう。
とすると、俺が目指す場所はもうこの近くにある筈だ。
マヨヒガを擁し、欲望に憑かれた者の行き着く果てであり、遠野の全ての元始にして終焉の場所。
白きを望む山――白望山。