今回から少しだけ生い立ちについて書いてみることにします
母が日本人のハーフです。
私は父と顔がそっくりです笑
背格好は母に似ていて、後ろ姿は母によく間違えられます。
右が父です笑
父は ホセ という名前がつくので、
スペイン系の血統だそうです。
私も2歳までは父親の姓を名乗っていたようですが、
法律が変わり両親のどちらかが日本人であれば日本の苗字と国籍が取れるようになって、
日本の名前で暮らすことになりました。
Eri という名前は、フィリピンでも呼びやすいからという理由でつけられたそうです。
(ちなみに、男の子だったらジュンでしたw)
今は国際結婚も当たり前になりましたが、
私が幼い頃はまだそれほど多くはなかったので、
母親は私がいじめられたりしないようにと
名前のことや、きちんと日本語を話せるようにと
気を遣っていたと聞いています。
さて、
父はもともとフィリピンでバンドを組んでいて
日本で活動をするために来日しました。
ボーカル、ピアノ、ギターができます。
全て独学で学んだようですが、私が言うのも何ですが、かなりうまいです笑
私が歌が好きで、一時期歌手を目指したのも
父の影響をうけています。
父のギター演奏の横でカーペンターズの曲を2人で歌うのが好きでした。
父が来日した時はちょうどバブル期で、主に六本木でライブ活動をしていたらしいのですが、とても人気があったと聞いています。
そこで母と出会い、結婚して私が生まれました。
その頃バブルも衰退してきた時期だったので、安定した生活を送るためにバンドを辞め、秋葉原の電気街にあるお店で働き始めました。
(一番初めの写真で父の後ろにテレビがあるのはそのためです笑)
英語が話せるので、外国人に日本の家電を売っていました。
幼少期は私の家は裕福とは言えない家庭で、
小さなアパートに住んでいました。
そこは母方の祖父母の家が近く、
私はしょっちゅうそこで遊んでもらっていました。
幼稚園に入り母親も仕事を始めてからは、お迎えは祖父母が来てくれることも多く、
家族全員が私を一生懸命に育ててくれた記憶があります。
異国の地で一生懸命に働く父と、私を育てるために働く母、それをサポートしてくれる家族、
そんな人たちの背中を見ながら育った私は、
結婚してからも働き、
子供はみんなで育てるものだ、
という環境が当たり前だと思っていました。
つづく
Eri
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