先日の投稿を書きながら、

気づいたことの続きです。

 

立場という壁・・・

 

私は、身体のことと、
教育のことがとっても好きです。

 

 

この前の投稿ではね、


学校の先生という立場が壁になるのは・・
っていう話をしていたんだけど、

 

教育の話をするときに「先生」同士って
集まりやすいんだけど、
(その逆「保護者」同士もしかりですわね)

 

最近も、「先生」がいっぱい
集まっている場を目にしたりした時に、
何か複雑な気持ちになった。

 

 

で、その複雑な気持ちというのは
何かと探っていったら、

 

「寂しい」というのが
一番言語としては近いのかなーと。

 

 

早い話、もっと先生とも話したいって

思ってるんだということなんだけども。

 

 

いろいろ思い返してみて、

 

《これが、立場か》
《これが立場の壁なのか》

 

とかね、少し、思ったりもした。

 

 

で、上記のことは、ふーんって思ったら、
何となく消化できたんだけど、

 

【立場】【立場】【立場】・・・
《壁》《壁》《壁》・・・

 

って、想いをめぐらしていたら、

 

ん?私自身の、
私の周りにありうる壁って、何だ?と。

 

 

素の、私自身に、
届きそうで届かなくなる『何か』が、

自分にもあるのかなと。

 

 

それは、
自分が自分の核に触れることにも、

 

誰かが、
大関朋子という私自身の核に近づくことにも、

 

きっと関係しているというのかなというのが、

 

ふわっと見えてきて、
感じとって、気がついた。

 

 

『自覚』というやつですね。

 

自覚・・・

 

 

自分にとって武器となりうるものは、
相手にとっても武器に見えたりするのかな。

 

 

ということで、気づきが続きます爆  笑

 

 

 

 

みんなは、こんな経験とかあるのかな?

どんなことを感じたりしてるのかな?

 

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