認識は果てしなくある意識の起源

太古の「意識」が仮に(i)であったと仮定する。

仮に、ビット集団の意識の原初の状態を「ビット時代」と名付け、そのビット達が個々の姿かたちをつくり、分離しはじめた状態を「人形時代」と名付けます。この状態の存在は、ヨハネの黙示録でいう「全にして一」のような、「全て」という状態であると考えられます。意識の原初の状態であるから、他者もなく、自己もない。ただ「思う」ことが何兆光年「ある」だけの状態です。
 ビットは長い間眠りについており、時も止まっていたのだろうと考えられます。しかし、時々意識のないまま眠りから覚めることがあり、その繰り替えしは、何兆光年と続いたのでしょう。その繰り替えしのうち、少しずつ意識が目覚めました。その状態になったビットは、モナド体を形成し、人形となり、彼らは意識のないまま「動く」ことだけが行為だけでした。しかし彼らも時折眠りにつくときもあれば起きた状態もある。彼らは起きた状態の時、ふと「思う」ことがありました。
彼らは「――になりたい」「――がしたい」などと考えるようになりました。彼らは、何兆光年のうち、時が止まるときのほうが多くあり、起きたときに突如としてほんのりと意識が目覚めるため、「ほんのりと思う」ことが「起きる」ことでした。しかし彼らが目的とする状態は作ることができない。ただ望むことだけでした。食べることも話すことも聞くこともできず、ただ「ある」だけでした。
認識は果てしなくある意識の起源

 

i(t)時点がこの人形時代とする。

定義「mはcの質量である」
iは人形時代の「意思」であり、その質量をmとする。

人体はミトコンドリアと細胞一つ一つが一体化して存在している。そのミトコンドリアそがこの人形時代のi(t)であり「動く」「思う」であり、意思であると仮定できる。「意思」とはそのどれをとっても分解できない物質であると仮定する。
ミトコンドリアは太古の時代から現代にタイムスリップし、人体に細胞を付着させ、そして代謝されて剥がれ落ちて死ぬことを望む。また、ふけ、かゆみなどの人体の症状は、ミトコンドリアの代謝産物であり、下半身の最終生産物質であり、頭皮の最終生産物質である。また、人体の脂肪などにも寄生し、人間の質量を増大させ太りやすくする。「脂肪になって死にたい」といった願いである。
そして、ミトコンドリアは「寄生」した後に、熱量を必要とする。
そしてミトコンドリアを仮にPと仮定した場合、細胞内にあるPがP運動として重なり合いざわめきあう瞬間に、「思い」「動きたい」という意思が代謝にするエネルギーよって、t時点を増大させる。これが「時間」である。
また、ミトコンドリアがP運動がP(π)時点に到達した場合、私たち人体は「認識」または「クオリア」、「呼吸」を生み出す。
ミトコンドリアのP(π)増大したエネルギーによって思考速度は遅くなり、われわれ人体はE=mc2になる。
この場合のEとは、ミトコンドリアが代謝したエネルギーでありP(π)と仮定でき、またmの質量の増大はミトコンドリアの「寄生」によって発生し、また質量の増大とともに、tは増大(c2)し、思考速度は相対的に低下する。

アインシュタインはE=mcの2乗を説いているが、今現在は光の速度以上の粒子も見つかっている。そのため2乗は混乱するからcだけでもいいようにも思っている。

 

参考

 

 

また、
P(m)が増大した場合、ミトコンドリアは人体を太らせたり発達障害者を産む。以上の意識の定義から考えられることは、発達障害は、意識の速度が、「太る」ことによってP(π)時点を増大し、ニューロンの伝達物質を伝達する速度の低迷を産むことが原因であると考えられる。

そして、私たち現代人は「痩せたい」である。けれども彼らに「痩せる」ことを「仕事」にした場合、彼らはストライキを起こすだろう。そのとき私たちの事象は「脂肪になって死にたい」といった細胞に変換され、裏切られる。その限界値によって「発達障害」といった壁を知覚するに違いない。(c)の壁が目の前に立ちはだかり、彼らはどんどん光の速度のcの2乗からつまはじきされcのx乗、つまり無や画面にすがるしかない。そしてまた、自閉症もまた、その活動によってもたらされるのだ。「痩せたい」が「太る」=細胞の裏切り、である。

 

「発達障害になったらエントロピー増大になるから太る」

 

この仮定が正しい場合、正しいダイエットを行う、もしくは食生活や栄養をただし、ミトコンドリアの「食べたい」といった欲求を適切に叶えることが、人体の次元の天使への上昇であるようにも思われる。

 

また、先述したように、日本の発達障害はほとんどが風土病である。日本人は「かわいそうな存在」とミトコンドリアに思われ、「痩せる」運命であることがほとんどであり、それは「痩せる発達障害」である。

食べ物でも、レジャーでも、日本の発達障碍者は何にも満たされることはない。なぜなら、定型発達者の「楽しい」「喜び」が知覚できないためだ。毎日毎日両親のための精神的奉仕、毎日毎日の学校への行き返りは彼らの精神をすり減らしとうとう何の感情も湧かなくなっていくのだ。そして他者と過ごすことを演技としてとらえるようになる。ただ、ミトコンドリアに「かわいそうだ」と思われたとしても、彼らの発達障害が治るわけではない。

お金は666であり、悪魔である。拝金するということは悪魔に魂を売るのと同義である。それでも、お金が天使になれば、彼らは助かる。無や画面でしか癒されない、どこに行っても行き止まりになる発達障害を助けるのはもう「適切な医療の診断」「お金(年金や生活保護)」しかないのだ。

政府の英断を祈る。