寺子屋 | 極真・柴田の「言いたいことは言う、ブログ!」

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でも、気を使って言いたいことなんか言ってませんけど…

 道場の在り方として私が理想としているのは「寺子屋」だ。

 寺子屋の起源は、中世の寺院での教育にさかのぼるとされる。
 寺子屋の教員(師匠)には、僧侶・神官・医者・武士・浪人・書家・町人などが多かった。今日の塾と違い、当時の寺子屋の師匠は往々にして一生の師であることも多かった。寺子屋の生徒を「筆子」といい、師匠が亡くなった時には、筆子が費用を出し合って師匠の墓を作ることが珍しくなかった。そのような墓を「筆子塚」といい、房総半島だけでも3350基以上の筆子塚が確認されている。
 寺子屋では、「読み書きそろばん」と呼ばれる読書・習字・算数の基礎的な知識の習得にとどまらず、地理・人名・書簡の作成法など実生活に必要な教育が総合的に行われていた。教育はまず数字の習得から始まり、次いで文字の習得がなされることが多かった。そして、実生活に必要な知識・技能の教育が行われていった。
 寺子屋への就学年齢は、特に定まっていた訳ではなく、およそ5 - 6歳で就学し、13 - 14歳から18歳になる頃まで就学する例が多かった。男子限定、女子限定の寺子屋も少なくはなかったが、男女共学の寺子屋が多数派であった。幕末期には、江戸に約1500、全国では15,000の寺子屋があった。1校あたりの生徒数は10人から100人と幅が広かった。
 明治に学制が敷かれると、寺子屋は次第に消滅していったが、寺子屋によって高水準の教育が庶民の間で広範に定着しており、明治初期における日本の識字率は世界最高クラスにあった。明治期の日本が急速に近代化を達成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を社会に与えていたことを評価する見解もある。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 実は現在、自主稽古の他に勉強に来ている道場生が数名いる。どうも家や学校では勉強がはかどらないらしい。このブログを書き込んでいる今も、1階事務所では勉強が、2階道場では自主稽古が行われ気合が聞こえている。まさに「寺子屋」といった状態だ。一時的でなく本当に道場がそういった存在になれれば幸いだ。