学校にコーチングの授業を 鈴木太一 -2ページ目

学校にコーチングの授業を 鈴木太一

「迷いのない人」
「決断力のある人」
「行動力のある人」
「自分の意思で行動できる人」

であるために

コーチ 鈴木太一

中学2年生の子を持つ親御さんとお話をする機会が多い今日この頃です。

よく話題になるのは、うちの子は、成績が悪いのに危機感がないんです。どうしたら、子供が自分で自分の現状に気づいて、自分から勉強してくれるようになるんでしょうか?ということ。

皆さんお悩みの話題です。

よくお話を伺っていくと、そんな悩みを持ち出される親御さんにはある共通点があることに気がつきました。


それは、

「まだうちの子はわからない。」
「うちの子には無理。」
「放っておいたら、きっとだめになる。」


と、口をそろえたようにおっしゃるということ。


その一方で、同じクラスには、常に学年トップの成績を収める生徒がいます。
その親御さんは、僕が「どうしたらそんな優秀な子が育つのか知りたいです」と伺ったところ、

「いやいや、こんなに何もしないでいいのかというくらい、何もしていません。」
「彼の意思に任せています」

とおっしゃいます。


そこにはどんな違いがあるんでしょうか。


僕が感じるのは、心から子どもの可能性を信じているかどうか?ということ。

口では、「あなたはできる」と言っていても、頭の中では「そうは言ってもできるはずない」と思ってしまうのが大人じゃないでしょうか。

大人は子供たちよりもたくさんの失敗を重ねているが故に、子どもには失敗してほしくないという思いから、自分の経験上、無謀だと思うこと、失敗すると感じることに対して、制限をかけたくなります。大切に思うのだから当然です。


でも、その反面、もしかしたら、やってみなくてはわからないチャレンジに対しても必要以上のブレーキをかけているかもしれません。


もしそのブレーキを少し緩めてみたら?
子どもがやろうとしていることを全部応援したら?
自分が馬鹿げていると思うことが、将来とてつもないアイディアにつながるきっかけをつながるとしたら?(これはよくあること)


そんな風に考えて、最大限その子のやろうとしていることを応援したり、受け止めてあげたら、どんな変化が起こるでしょうか。


子どもの発想力は時として大人の凝り固まった思考力を凌駕します。
教員である僕は毎日そんなアイディアや思考力に触れられて幸せです。


学校は、そういう独創力豊かな子どもにとって、安心して自分を発揮できる場であり育てる場であるべきだと僕は思います。
(だって、この国世界を回すであろうとんでもなく面白いやつになる可能性を秘めているんだから)



僕は思います。
人は本来学びたがっているんだと。
そこには大人も子どもも関係ないんだと。

そして、大人も子どもも無限大の可能性を信じてもらえることで、そのパフォーマンスを最大に発揮できるんだと。


「この子には絶対できる。」


まずはそう心から信じることが、子どもの自立を促す力になるんだと、僕は考えます。

「親が子どもに対してできること」
・認める(存在そのもの、考え方や価値観、頑張り) 
・与える(愛情、知識、信頼)


「親」になるための学校ってない。


この世の中にとって、こんなにも大切な存在であるにもかかわらず、不思議なもので、誰も教えてくれない。

だから、多くの親が子どもの成長過程で少なからず不安を抱える。これでいいのだろうか?って。僕もその一人。


でも、こう思う。


子どもたちは、親たちができることをしていれば、自らの力で行動し、育っていく力を十分に持っている。


だから、親ができることって、上に書いたように、実はとてもシンプルで、そして親になった人であれば誰もができることなんじゃないかな。と思う。

子どもが生まれて、「親」になったけど、「親」は、資格試験みたいに勉強してなるもんじゃない。
子供たちにとっては、生まれた瞬間から、そこにいるだけで、かけがえのない存在。

だから、無理せず、意地を張らず、できることをするだけ。

・認める(存在そのもの、考え方や価値観、頑張り) 
・与える(愛情、知識、信頼)

小学校の頃、一度だけ、不登校になったことがあります。

理由は、学校に行くのがめんどくさかったから。

家にいて、のんびりテレビを見たり、布団でゴロゴロ寝ていたいなー。と思ったからでした。


僕はその頃、目の前に大変なことがあるとき(宿題、小テスト、友達関係、持久走…)、そこから目を背けていました。


だから、朝起きて、お母さんにお腹が痛いと言って、仮病を使い、痛そうなふりをしてずっと休んでいました。しばらくは、正直パラダイスでした。




数日後。




庭からなぜかクラスメイトの声が聞こえました。




当時小学校から徒歩3分の距離に住んでいたので、担任の先生が声をかけて、一緒に呼びに来てくれたのでした。



でも、そのときの気持ちは、複雑でした。



仮病がバレたらどうしようという焦り(恐らくもうとっくにバレバレでしたが)、しばらく合っていないことからの恥ずかしさ、どんな顔して出て行ったらいいかわからない…



そんな思いが巡っていました。



お腹が痛いから、ということで、結局行けませんでした。



その日の夜、特に親から何を言われたわけでもないのですが、



自分の中に葛藤が生じました。


なんなんだよみんなして、俺のパラダイスを奪いに来て…。
腹痛を貫いてこのまま、ずっと学校に行かなかいでいよう。いろいろ聞かれるのも恥ずかしいし、めんどくさい。


でも、


このままずっと行かなかったらどうなるかな。ずっと一人でいなきゃいけないのかな。
仲のいい友達とも遊べなくなっちゃうのかな…



次の日の朝、



親に連行されて学校へ行きました。



その日一日は、親に一緒に教室にいてもらって、過ごしました。



友達とはほとんど会話できませんでした。


そこにいることがとても恥ずかしくて、蒸発していなくなってしまいたい、そんな気分でした。


そして、次の日。
また逃げ出すこともできたでしょう。
でも、不思議とそうなりませんでした。


そこから、不登校は一切しなくなりました。




今思えば、本当はそこから抜け出したいと思っていたんですね。


嫌なことから目を背けている間、それでさっぱり忘れられたらいいんですが、どこかしら頭の中をぐるぐるしていましたから。





そこから抜け出すために必要なことは、

実は、

行くか、行かないか

このたった二つの単純な選択肢だけ。



ただ、当時の僕にはそれを選択する勇気がなかった。






そんな僕に、ちょうど葛藤がはじまっていた頃に、クラスメイトや、親の一押しがありました。感謝です。


でも、あの時、葛藤もないまま、学校に引っ張り出されていたら、多分また逃げていたと思います。


行かない方を選んでいたら、人生はまるで違うものになっていたでしょうねー。



葛藤がある時、人は、選択肢を思い浮かべます。
その選択は、その人の人生を大きく変えるかもしれません。少なくとも僕はその選択で大きく変わりました。



大人になってからこんな言葉を学びました。

「迷ったときは、勇気のいる方を選べ!」



今は、目の前に選択が現れたときは、この言葉に従うようにしています。
その方が、より楽しい人生になりそうですから(^^)