無事甥っ子のお葬式が終わりました。
小さくなってしまった甥っ子は妹たちと共にお家へ帰りました。
抗がん剤や、放射線が追いつかなくなって通院ではどうにもならなくなり、2週間ほど前に手術してもらった病院へ入院し、その後家の近くの病院の緩和ケア病棟に移って4日。
コロナ禍とは違い、家族は寄り添う事ができ、先生方にも良くしてもらいながら緩和ケアを受けていました。
痛み止めを最大限使ってもらっていましたが、息苦しいのだけはどうしても取り去る事ができず、妹たちは隣で寄り添っていてもその呻き声で眠る事ができなかったと言います。
最後は眠るように息が止まったそうですが、ギリギリまで苦しかったようです。
元気な時に会っておきたかったのに…
間に合いませんでした…
私たちが駆けつけた時には、まだ苦しげな形相でしたが、葬儀場に運ばれ、お化粧をしてもらった後はガンのせいで飛び出し半分開いたままだった目も上手に閉じられて、とても穏やかな顔になりました。
お婿さんの時と同じように、ずっと見ていると、パッと目を開いてくれそうな…そんなお顔です。
次女はやはり思う事があるのでしょうか、私たちよりも長く寄り添って顔を撫ぜたり髪の毛を撫ぜたりしながら眺めていて…
その後ろ姿はやはり見ていて辛いものがありました。
従兄弟同士は仲が良かったけれど、こんな風に顔をなぜた事なかったよね…
おしゃれな甥っ子は、お気に入りのお洋服を着せられてちょっと満足そうです。
ガンが進行するまではやりたいことをやるのだと言って、旅行にも何度も出かけて、兼ねてからの希望のわんこも家にやってきて…
病院から葬儀場への途中、お家の前を通った時、そのわんこと合わせる事ができたんですが…
わんこが自ら甥っ子に近づいていって頬をぺろってしたんだそうです。
姪がそれを写真に収めてくれて…
みんなでよかったねと…
自らの最期を悟り終活をしていた甥っ子。
遺影の写真を決めたり、連絡をして欲しい友達のリストを作ったりしていたのですが…
頭のいい子だったこともあり、そのリストの入ったパソコンは、携帯の中に残したパスワードを入れないと開かなくなっており、あろう事かその携帯のパスワードがわからず開けられない事態となって、慌てるも最後まで開く事ができず…
40人程の知らせたい人に直接連絡することはできなかったのですが、学生時代の数人の仲間がSNSで拡散してくれたお陰で大勢の友達が駆けつけてくださり、その人数は150人を超えていました。
従兄弟の中でも物静かだった甥っ子でしたが、交友関係の広さに改めて驚き…
会社関係の方も愛媛からわざわざ5人も来てくださり、その他のところに散らばっていた同僚も合わせたら10人以上。
とても優秀な子だったので、就活の時に、会社が彼を欲しくてわざわざ推薦枠を作って迎えられのだと聞きました。
8年間大学で学んだので、26歳で入社して、たった3年足らずで研究の成果を出し、この度表彰状をもらった甥っ子。
人柄もよく、ピアノやバイオリンを嗜み、仕事もでき、運動すらもできた甥っ子なので、きっと神様が彼を欲しくて連れて行ってしまったんでしょうね…
あまり自分のことを私たち叔父叔母には話してくれていなかったので、今になって知ることも多かったですが、カメラをやっていたこと…
そんなの知っていたら一緒に撮りに出かけたかった…
自分のお骨はダイヤモンドにして欲しい…
それが遺言だったそうですが、それも、私が兼ねてから望んでいたことでした。
意外と気があっていたことを知って、また涙が溢れます。
もっともっとたくさん接していたらよかったな〜
まさかこんなに早くに行ってしまうとは。
お骨はまず主要なところを骨壷に収め、手元供養のための小さな骨壷にも分けられ、その後はダイヤモンドを作るために全てみんなで拾って大きな箱に収めました。
火葬された台から全てのお骨がなくなったのは初めてでした。
葬儀場に帰って初七日。
お経の後にはありがたいお話があり、南無阿弥陀仏の意味と、仏様になった人とは南無阿弥陀仏と唱えることで繋がる事ができるのだということを教えていただきました。
これからはその意味を胸に何度も何度も唱えることになるのでしょうね…
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…
今回も、次女の旦那様の時と同じく一日空いてからのお通夜お葬式だったので、少し長くそばにいられたことで、みんながゆっくりお別れできてとてもよかったのかなぁと。
しかし、さよならするにはあっという間で…
まだまだ夢の中のようです。
最後に…
あの子がお葬式で流して欲しいと希望した歌。
Mrs. GREEN APPLE
「僕のこと」を聞いてやってください。