神奈川県 伊勢原市 洞昌院さんへ。⑯ 太田道灌 公。 | KEN ituki

神奈川県 伊勢原市 洞昌院さんへ。⑯ 太田道灌 公。

 

 

神奈川県 伊勢原市にある

大山の帰り道

 

たまたま

車で通りかかった

 

バス停の停車場の案内を

運転している車から

 

ふと目にしたのは

 

道灌塚前 

という名称のバス停で

 

太田道灌 公の塚かと思い

来てみました。

 

 

 

 

 

太田道灌公の 菩提寺

洞昌院さんです。

 

伊勢原市の上粕屋という

場所にあって

 

たまたま

偶然なのですが

 

10代20代の頃とは

くらべものにならないと

思いますが

 

私の動体視力も

まだ大丈夫なようです。

 

 

駐車場から

近くに行ってみると

太田道灌公の墓と

 

刻まれた

石塔が立っていました。

 

 

 

 

 

こちらの石塔には

史跡 太田道灌 公の墓と

刻まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

太田道灌と山吹の花

の逸話の案内板がありました。

 

江戸城を築城し

江戸と東京の都市計画などに

 

深く貢献し、東京の街づくりの

先駆者である太田道灌 公です。

 

 

 

 

 

 

 

 

太田 道灌 公は

平 将門公を征伐した

 

藤原 秀郷 公 の直系の子孫でもあり

奥州平泉の 藤原三代の藤原秀郷 公の

直系の子孫にあたります。

 

関東の英雄でもある

太田道灌の国内の政治的や

 

強力な武力をともなった

知識文化人でもある

 

太田道灌に

強い影響を受けた

江戸や東京の街づくり

 

鎌倉時代や

室町時代、戦国時代が終わり

 

徳川家康 公は

基本的には太田 道灌 公の

 

城下町の都市づくりの

計画を引き継いで

いったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

今もこの場所に

霊廟が残されていて

 

明治時代や大正時代には

太田道灌 公がとても

大切にされ

 

太田道灌 公の

立派な霊廟であったことを

 

この場所は物語って

おりました。

 

 

 

 

 

 

おそらく明治時代に

整備しなおされて

 

造られたと思われる

お堂の擬宝珠(ギボシ)

 

が残されていて

このお堂はとても立派な

 

ものであったと

想像がつくのでした。

 

 

 

 

 

明治時代となれば

セメントなども

 

貴重な高級品で

きっとその頃に

 

この場所が整備し

なおされたのでしょう。

 

太田道灌 公の

墓石の石塔ですが

 

本来私の記事では

墓石などは写真に撮って

 

掲載しないように

していますが

 

 

 

 

 

 

 

太田道灌 公 ともなれば

墓石や石塔などは

 

一般的な墓石とは違い

特別な存在といえるので

 

 

 

 

 

 

過去の英雄である

太田道灌 公に敬意と

 

感謝を込めて

掲載させていただく

ことにします。

 

 

 

 

 

 

太田道灌 公 の霊廟

神聖な場所です。

 

 

 

 

 

 

昔に張られた

コンクリーとは

 

玉石の装飾があって

 

 

 

 

 

 

 

 

太田道灌 公が

当時の人たちに

とても愛され大切に

 

されていたことが

伝わりますね。

 

 

 

 

 

 

きっとお堂や伽藍の

礎石なんだと思います。

 

この石の上に柱が立ち

太田道灌 公 の立派な

お堂が立っていたのでしょう。

 

 

 

 

 

ただ武力に

とても秀でた武人ではなく

 

人愛と知性と教養と

全てを身に着けた

室町時代の日本の偉人です。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな

太田道灌 公の墓所に

手を合わせ

 

 

 

 

 

 

伊勢原という場所を

深く考えて見ました。

 

 

 

 

太田 道灌 公といえば

桔梗紋ですが

 

伊勢原市上粕屋の

この近くの場所には

 

七人塚が

あるそうで

 

今回は

たまたま偶然に

 

私の動体視力から

こちらにご訪問させて

頂きましたが

 

 

 

 

 

 

私がもう少し

この地の伝承や

 

昔話に詳しく

なった時に

 

この地を再訪し

その伝承である史跡を

訪れたく思います。

 

 

 

 

 

 

 

太田道灌 公の

出生地としては

 

 

 

 

 

 

 

現在の埼玉県の越生町の

山枝庵や

 

神奈川県伊勢原市の

上粕屋のこのあたりと

 

いくつかお話として

伝わっておりますが

 

 

 

 

 

 

 

上粕屋のこのあたりには

扇谷上杉氏の居館があったそうで

 

きっと

どちらの場所にも

 

太田道灌 公の幼少期の

思い出や由来が

残っているのだと思います。

 

 

 

いせはら文化財サイトのリンクです。↓

 

もしご興味がありましたら

こちらも読んで見て下さいね。

 

上杉館跡 | 伊勢原市 (city.isehara.kanagawa.jp)

 

 

こちらは以前私がこのブログで

書いた記事です。↓

 

川越市 三芳野神社 とうりゃんせ発祥の地!  | KEN ituki (ameblo.jp)

 

埼玉県 毛呂山町 山根城址へ。③ | KEN ituki (ameblo.jp)

 

埼玉県 鳩山町 東山沼へ。⑦ | KEN ituki (ameblo.jp)

 

 

 

 

 

 

 

現在の

埼玉県岩槻市ですが

 

過去には岩槻城という

お城があり

 

こちらは

ある時期から

 

太田氏が城主を

務めているのですが

 

室町時代や平安時代には

どちらが本拠で

 

どちらで生誕して

どちらで育ち

 

どちらに居住したのか

はっきりとわからない

 

ケースが多いのが

日本の貴族や武人たちの

歴史でもありますが

 

 

 

 

 

 

その理由としては

日本の各地にそれらの人の

 

館があり

政治的な戦いや紛争などがあると

 

日本各地を移動して

その事態の終局に向け

 

尽力したからなはずで

確かにどちらの場所にも

住んでいて

 

どちらの場所でも

暮らしていて

 

どちらの場所でも

勉学と仏法などを

 

師から学び

活動していたはずなので

 

所縁と由来のある地域が

現在も語られているの

だと思います。

 

どちらで生まれても

また生まれた場所は

 

母方の院や寺社さんでも

ある意味はどこでもよく

 

その場所に居たことが

重要で大切なことだと思います。

 

 

私たちも近年では

父方や母方の母屋ではなく

病院で出生しますからね。

 

どちらも生まれ育って

そこに住んでいた場所が

 

歴史的に重要なんだと

思います。

 

 

 

 

 

 次回につづきます。