国や県は、水俣病の被害者より加害企業の側に立ち、公害と認めるまでに12年の時を要し、
その間にも被害は拡大。

その後の法廷闘争の末、加害企業チッソは 国の庇護の下 被害者への補償を、
不本意ながら行うことになるが・・

原発事故を起こした無責任企業・東電も、
被害者・国民の収めた税金で生かされながら、被害者への補償を裁判官気取りで査定。
東電“補償“裏マニュアルを入手!加害者の分際で裁判官気取り。

モラル欠如の遺伝子は、国や県・チッソ・東電の経営陣に脈々と・・


1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。
1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。 熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。   
1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年、50人が発病し11人が死亡。
1957年:水俣保健所の実験で、水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。
1958年:熊本県が水俣湾海域内での漁獲を禁止。
1959年:熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表。 同年11月12日には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申。発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話。
1960年:政府は「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足。しかし、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅。
1961年:水俣市で女児(3歳)死亡。病理解剖で胎児性水俣病と確認。
1962年:水俣病審査会、脳性小児マヒ患者16人を胎児性水俣病と認定。
1963年:2月16日、熊大研究班の報告会で、入鹿山且朗熊大教授が「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表[8][9]。
1964年:1月、白木博次東大医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表(これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった)。

1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表。

同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表。
.wikipediaより抜粋

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  Yahoo!ニュース・朝日新聞デジタルより
水俣病「救済終わっている」チッソ社長発言 慰霊式後に
【「公害の原点」といわれる水俣病の公式確認から62年を迎えた1日、水俣病犠牲者慰霊式が熊本県水俣市の水俣湾埋め立て地にある「水俣病慰霊の碑」前で営まれた。参列者は犠牲者を悼み、水俣病のような悲惨な公害を二度と繰り返さないことを誓った。

 慰霊式には患者や遺族、原因企業チッソの後藤舜吉社長、中川雅治環境相ら約680人が参列した。患者・遺族代表で認定患者の金子親雄さん(66)が「困難に負けずに生きる姿で、人に勇気を与える人生を、これからも歩んでいきます」と祈りの言葉を述べた。

 水俣病は1956年5月1日、水俣保健所に届けられ、公式確認された。2282人の認定患者のうち8割を超える1931人(4月27日現在)が亡くなった。4月には市立水俣病資料館語り部の前田恵美子さんが死去。患者以外でも、水俣病被害者の辛苦を「苦海浄土」につづった作家の石牟礼道子さんが2月、鬼籍に入った。(奥正光)


 チッソの後藤舜吉社長は慰霊式後、記者団に対し、水俣病被害者救済法(特措法)に盛り込まれた事業会社JNC株売却要件の一つの「救済の終了」について、「異論はあるかもしれないが、私として救済は終わっている」と発言した。

 株売却後、チッソは会社の清算が可能になるため、補償の主体が消えるとの懸念が患者・被害者団体にある。一方、中川雅治環境相は、現在も患者認定を求める人が相次ぎ、裁判も続いていることから「現時点で救済の終了とは言いがたい」との認識を示した。】