原発被曝という実態のある被害を、「風評被害」?と怖れていては、福島は何時まで経っても救われない。

 政府・原子力ムラ、そして福島県庁とも闘わなければ、福島県民は見捨てられたままだ。

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 takedanet武田邦彦 (中部大学) ブログより
イタイイタイ病と原発被曝・・・江戸時代と平成時代
【かつて富山県を流れていた神通川の上流にカドミウムという元素を含む鉱石があり、それから流れ出した「カドミウム入りの水や作物」で多くの人が「イタイイタイ」と泣き叫ぶ病気になった。後にイタイイタイ病と名前がつけられた。


かつて江戸時代には神通川上流で病気が発生していることをひた隠しにしたために解決が遅れた。それはその付近に住んでいる人たちが「差別」を恐れたからであった。


しかし、「隠す」ということは「そこに住む人の健康や人生はどうでもよい」ということであり、病気になった人はひたすら痛みに耐えるしかなく、解決もできなかった。


それが昭和になって、「病気になるのはその人の責任ではない」ことがわかり、「事実が明らかになったほうが解決が速い」と言うことにも気が付き、そこに「荻野医師という献身的な医師が登場し」、イタイイタイ病は急速に解決し、数100年にわたる苦闘の歴史に幕が下ろされた。今では富山県に行っても神通川の領域にいっても何も問題はない。水ばかりかお米なども美味しく、一人の患者さんもでない。


「差別される」などといういわれなき風評を立てて責任逃れしていたその地方の指導層の錯覚だったのだ。でもそれは江戸時代のことで、何事も「事実に向かい合う勇気」、「事実に基づいて解決する科学的態度」、それに「献身的な医師や専門家」の存在が困難を解決する。


それに比べて、今回のマンガ「美味しんぼ」の鼻血事件は、現在の福島県、宮城県、茨城県、岩手県南部、千葉県、東京都などはこの平成時代になにを怯えているのだろうか? もし軽度の被曝によって鼻血を出した人や地方を「差別」する人が居たら、「あなたはまるで江戸時代の人のようですね」と断固として言うべきだ。


そこで、ゆえ無き「差別」に妥協したり、屈したりするなら、社会を明るくすることはできない。せめて、具体的にどういう差別が発生するのか、もし差別するとしたら誰が差別するのかもハッキリするべきである。それこそが改善しなければならないからだ。


江戸時代のように「風評」を恐れ、事実を認めず、データを出さず、医師は100ミリまで大丈夫という。


鼻血ばかりではなく、これまで甲状腺がん、死亡率の上昇、田畑の汚染度、作物の汚染度などほぼすべてを隠ぺいして、それを明らかにしようとすると「差別!」と言ってバッシングするのは、あまりの恐怖に負けているのか、それとも福島県の人口が減ると儲からないという金銭的なことか、それは江戸時代の富山県神通川上流の人たちよりひ弱に見える。


被曝による病気が起きるか起きないかは不明である。しかし、1年1ミリシーベルトという被ばく限度、1平方メートルあたり4000ベクレルという汚染限度など、私たちが約束(法律)してきたことを正々堂々と守ることが平成時代の私たちに求められていることだ。


仮に、1年1ミリシーベルトを守れないとしたら、どこの地域が守れないのか、何をすればよいのか(除染か移動か)などを明確にして、それに対して全力を挙げ、自分たちと子供たちを守るのが私たち日本人、同胞の役目である。


あるいは1年1ミリシーベルトという私たちの約束(法令)が安全だったかも知れない。でもそれはがんの発生がおさまる20年後にしかわからないのだ。日本人、同胞の健康と人生に対して、そんな大きな賭けをしてもよいとは私は思えないし、また原発を運転していた以上、「不可能な法律(基準)」を決めていたわけでもない。


しかし、原発事故の前まで、あれほど「放射線は危険だ」と言い、「基準値を下回っているからと言って放射線を洩らしても良いのか!」と1000分の1でも大々的に報道していたのはいったい、何だったのだろうか? 


この点については少し深く検討してみる必要があるが、こちらの方も江戸時代と同じで、「みんなと違うことを言うと村八分に合う。事実とか道徳とか言うものではなく、同調しないと」と言うことが理由だろう。


今回の鼻血で、敏感に反応した人は、学校にいればイジメに心を動かす人ではないかとも思う。】