東京新聞社説

【原発の是非をめぐり大規模な集会やデモ、住民投票実施に向けた動きが広がっている。国会にこう訴えかけているのではないか。「民(たみ)の声を恐れよ」と。

 九月十九日、東京・国立競技場に隣接する明治公園で開かれた「さようなら原発五万人集会」。呼び掛け人の一人、作家の大江健三郎さんはこう訴えた。】

 「私らは抵抗する意志を持っていることを、想像力を持たない政党幹部とか   経団連の実力者たちに思い知らせる必要がある。そのために何ができるか。   私らには民主主義の集会、市民のデモしかない。しっかりやりましょう」】

◆政治過信の果てに

 【背景にあるのは「国民の厳粛な信託」(日本国憲法前文)を受けた国民の代表者であるはずの国会が、「国民よりも官僚機構の顔色をうかがって仕事をしているのではないか」という不満だろう。

 代議制民主主義が、選挙で託された国民の思いを正確に読み取り、国民の利害が対立する問題では議会が持つ経験に基づいて調整機能を働かせれば、国民が直接行動しなければという衝動に駆られることもなかった。

 例えば原発建設。地震頻発国のわが国に、なぜここまで多くの原発が造られたのか。安全性をめぐる議論は尽くされたのか。

 国民は素朴な疑問を抱いていたにも拘わらず、国会はそれを軽んじ、官僚と電力会社主導で原発建設が進んだのではないか。深刻な事故後も脱原発に踏み込めないのは、政官財の利権構造を守るためだと疑われても仕方がない。

 増税もそうだ。少子高齢化社会の到来に伴い増大する社会保障費を賄うためには、いずれ消費税を含む増税が不可欠だとしても、その前にやるべき行政の無駄や天下りの根絶は不十分だ。

 難しい課題にこそ与野党が一致して取り組んでほしいと国民が望んでいるのに、霞が関への遠慮からか、遅々として進まない。

 二〇〇九年の衆院選で民主党への政権交代が実現したのは、官僚主導から  政治主導への転換に対する期待感からではなかったか。

 その民主党政権が二年間の試行錯誤の末、行き着いたのが結局、官僚との共存路線だった。野田佳彦首相に問いたい。菅前内閣のように官僚を排除する必要はないが、それは国民が民主党に望んだことだったのか、と。

 政治不信といわれて久しいが、むしろ私たちは政治を「過信」していたのではあるまいか。

 選挙は主権者たる国民が主権を行使する唯一の機会だが、選挙後は 「どうせ政治は変わらない」と諦めて、声を発しようとしない。そもそも投票する人が減り、 あらゆる選挙の投票率は低下傾向にある。そんな「お任せ民主主義」で政治がよくなるわけがない。

 仏革命に影響を与えた十八世紀の哲学者ルソーは社会契約論で         「彼ら(イギリスの人民)が自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が 選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(岩波文庫版)と英議会制度の欠点を指摘し、直接民主制を主張した。】 一部抜粋

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 議員を投票で選んだその瞬間に、議員は有権者からの付託を忘れて背を向け、本来の飼い主?の為、自己の利益や欲の為に働く。 

 私たちは、嫌という程そんな光景を見てきた筈だ。それでも同じ過ちを繰り返す。
そろそろもっと利口になって、彼らの嘘を見抜かなければ、家も土地も、お金も仕事も、国さえも失ってしまう。