道具にも生命観を抱き、自然と人間と道具の相関から生態系を把握する事において、完結性の高い世界観が掴みだされる。因果が発生する所に、生命という生き物の存在を浮かべて、生き物同士の最良な相関を作る事において分断的な感覚に寄らない有機性が生まれる。自己と外界の良き調和性を作り持続的な相関や改善を果たし、生きた動的調和と解される。自然環境から資源を採取し精製加工して、人体に取り入れるか、人体に取り入れるまでの工程で有用な道具や装置となって作用するか、という過程と物事の配置が掴みだされる。「自然資源→人体→自然資源」という循環で一つの生態系が構成される。これが自然と道具と人間の相関と集約され世界が捉えられる。自然資源から一方的に栄養を奪う事に至れば、自然環境の生態系が崩れて、人間の予期できない現象となって人間に襲いかかる。恵みを賜る存在であると同時に、脅威になり得る事が想定されて、良き相関を作る発想と思索と行為をもって持続的再生産の道が起こされる。道具が発達して、道具による自然の把握や制御性が高まると共に人間の身体作用や感受性が低下して、道具なしにはいられない体質が作られる。道具や装置に生命的な存在感が強まり、自然と道具と人間の相関へ至る。こうした生命体の法則性が確認されて適正な調和を見出す発想を喪失せずに、根源の感性を不動にして適度さを導出する創造力が起こされて、恵みと驚異への適正を果たす事へ至る。人間の数が増え、欲求が増大し、道具による欲求の充足へと向かう。自然環境の破壊が進んで、制御不能な変化と影響を受け人命を失うという想定が描かれる。空疎性の宣伝工作や金融技術などへと偏って、人を騙し糧を得るような醜態が進むような事にあっては、大局観を喪失した人間性の破綻とも見做されかねない。地に付いた感覚が崩れ人間世界の病理性が進み、予期せぬ不幸を招く危機への想定が現れて、健康な感性への見直しや改善を図り、生産事物へ反映されて真面な軌道に修復される。制度や法規、無形財にも道具という性格が生まれる。悪しき道具という活用に及ばせる事のない人間の健全性が問われる。自然環境との対峙が弱まるほどに、欲求の狂いや精神性の悪化を齎し、歪な世界観と人間社会を作り大道を外したエネルギーが起こされる。こうした変わりづらい世界観を同一的に抑えながら大局観をもって、個々の在り方を作り上げる態度にあって自然へ対する人間という同一的本性が作り出され、普遍的且つ不変的な原理を形成するに及ぶ。自然と人間を含んだ世界観が描かれ、あるべき人間の姿を作り上げる事へ至り、価値観の優先度や体系が作り上げられる。大局観の適正は変わりづらい価値を指し中局や局所が配され、性格が付けられる。自由主義や人権、民主主義、平和主義等という抽象性の高い観念ばかりが先行して、地に付く世界観が崩れるほどに、可笑しな生産や人間を招くようにも伺えます。
良好な概念や体系、ビジョンを描き出す事から、現象の性格への真相真価が浮かび上がり、確かな根拠と良好なエネルギーを生むものと思います。観念表現ばかりの先行で悪性と見做されない為には、こうした効用や因果が発生して、有用性に解される。この作用も少なからず求められるものと考えます。
やってきたことと、いう事があまりにかけ離れるようでは精神分裂症を指し、真面に相手にできない。妙なマスコミ病は現代的な悪性と映る。残念ながら、金も払わず、盗みで慢性化されたごみという認識で丁度よいのではないでしょうか。ごみが頭じゃ、手足はカスだ。解るか?ボンボン。