22.05.03 津和野城[山陰の小京都を睥睨する城]その3 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

津和野城 レポ第3弾となります。

 

 

その2のレポ

 

 

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見所となる遺構 (土塁など)はブルー、名前のある場所 (本丸など)はパープル

現存建築物 (移築建築物含む)はピンク、再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ

跡地 (櫓跡など)はグリーン、その他 (銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

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織部丸 に入ってきました。

細長い 曲輪 で、大きさは、それほどでもありません。

発掘調査などが行われた後に、修復されたのか、画の手前側には 排水溝

見れます。

 

 最近、修復されたのでしょうね。

 

 

 

説明では『出丸』とある、この織部丸。

その説明版を読んでみると、津和野藩主として入封した坂崎直盛の弟である

浮田織部の名を冠した曲輪の様ですね。

しかし浮田とは…『宇喜多』から姓名を変えているんです。

そして浮田織部が坂崎直盛の弟という事は、直盛自身も元々は『宇喜多』姓で

しかも、五大老の一角で、豊臣秀吉からも寵愛を受けながら関ヶ原で敗戦し

八丈島へ遠島された、岡山の宇喜多秀家が従兄弟なのです。

1600年に、宇喜多騒動なる、御家騒動が勃発。

秀家と有力家臣団が対立したこの内紛は、徳川家康の裁定で、内戦までには

至りませんでしたが、多くの家臣が秀家の元を去ります。

直盛もその一人で、その後に起きた関ヶ原合戦では東軍につき、戦功として

この津和野三万石として入封します。

その際に、家康の命で『坂崎』と名乗る様になったそうです。

 

 蘊蓄はここまで。

 

 

 

修復されているので、説明版などが綺麗な織部丸。

ないと、この 平櫓 跡もなんのこっちゃ判らんかったでしょうね。

 

 排水溝の左(東)が平櫓跡です。

 

 

 説明

 

 

 

曲輪の周囲の一部に、土塁 が見られました。

織部丸内は僅かですが、傾斜があります。

そして廻りを塀で囲っていた様です。

その塀を設置するには、地面を平滑にする必要があったので、土を

盛ったのかもしれませんね。

 

 あくまでも推論です。

 

 

 

さて、この織部丸の北東隅には、二重櫓 が乗っていたそうです。

今では、疎らに残る(と言ってもこれも修復の様ですが)、櫓台の石垣

往時をしのばせます。

尚、外周が鈍角に屈曲されている、二重櫓は、ここだけだとか。

 

 奥の方で鈍角に曲がっているの…判り難いかアセアセ

 

 

 説明

 

 

 

では、織部丸からの眺望コーナーに入ります(勝手に)。

先ずは、眼下に見える、馬場先櫓

きもち、木々と電線(またか…)に隠れていますが、手前(北)の橋詰の右

(南)に見えます。

石州瓦が黒く写ってますけどね。

ただ、ここで気づく(というかブログを書いている時に)のが、あの辺りから

この織部丸の石垣を狙って撮っていますが(その1で紹介しています)

角度的に、もしかすると織部丸ではなかったのではという事を…。

 

 まぁいいじゃないか(よくない)。

 

 

 

次は、津和野の市街地方面を。

津和野と言えば、その2でも撮ってましたが、山口線が走る街です。

そして山口線と言えば鉄道好きなら『SLやまぐち号』を連想するでしょう。

しかしこの日、そのSL(確かC57)の車体に支障があり、翌日から

デイーゼル機関車での代行運転が開始されます。

その事実を知ったのが翌日なのですが、その後に検査などにあたりなかなか

SLやまぐち号としての運行はできていなかったようです。

しかし、今年の5月3日。

2年振りにC57牽引の『SLやまぐち号』がカムバックしたそうです。

 

 どこかのタイミングでSL山口号を捕えたかったのですが…。

 

 

 

上の画の場所から、少し大きめの画角にして、津和野の街を狙いましたが

この津和野盆地(という名がついているのかは不明)は、かなり狭いですね。

ただ、津和野のある石見の国境の街で、山陽と山陰を結ぶ交通の要衝だけに

往時から、非常に重要な街だったのでしょう。

 

 猫の額ほどしかない平地が展開している街です。

 

 

 

猫の額って狭いですが、もっと狭い動物がいるのだが…。

もしかしたら、狭小と言った方がピンとくるのだろうか(独り言です)。

さて、城内の話しに戻しましょう。

二階櫓跡から、北方向を覗き見してみると、削平地らしきモノが

広がっていました。

しかし、ブログを書きながら縄張図を見てみると、そこには曲輪が

描かれていないんですよね。

でも、画を見る限り、そう見えるのだが…。

もしかすると、緩斜面なのかもしれませんが、この織部丸との高低差は

実感できると思います。

 

 下からの高さの比較で撮ったのかもしれません。

 

 

 

今となっては謎ですが…。

次は織部丸周囲の 石垣 探訪といきます。

ただ、足元の平地が滅茶苦茶狭いので、少々、難しい位置でしか

見れませんでしたが。

 

 こちらは北面、二階櫓跡付近の石垣です。

 

 

 

題『山並みと石垣』という風な画になっていますが、こちらは二階櫓跡下の

石垣ですね。

って、難しい構図なので石垣が主役ではなさそうな画になっていますが…。

 

 でも、こんなんもありかも。

 

 

 

少しだけ進んだ場所で、撮った画もこんな感じ。

 

 こちらの方が石垣メインな感じですが、間から伸びる草が邪魔だわもやもや

 

 

 

また判り難い画なんですが、ここが二重櫓の鈍角の部分、しのぎ積

なっている箇所です。

ほんまは正面から狙えば判り易いんですが、如何せん足場が狭いので…。

 

 日頃、言い訳が多いブログですが、これは流石に無理でした。

 

 

 

足元に、 が落ちていました。

『瓦』が出る度に、言っていますが、あまり興味がありません。

ただ、ここにそれが落ちているという事は、瓦葺きの建物があった証。

ここに権威の象徴の様な建物があった訳ですね。

 

 それにしてもよく残ってましたね。

 

 

 

織部丸の西面に廻りこんできました。

未だ、石垣の解説をしていない(必要ないかもしれんが)のですが

野面積の石垣 なんですよね。

ここまで、アングルじゃぁ~、足元が狭いじゃぁ~と文句を言っていたので

気づくのが遅くなりました。

 

 でも、足場が狭いので、こんなアングルです。

 

 

 

失敗作も載せておきます。

とにかく、天気が良かったので、光が邪魔をする事も多かったですね。

 

 中心に太陽光が入り込んでいますガーン

 

 

 

石垣の塁線。

結構、こういう風に伸びていく画も嫌いではないです。

 

 奥に見えるのが、織部丸の南端になります。

 

 

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織部丸のレポ、もうちょっと続きますが、最後まで読んで頂ければ幸いです。