21.12.30 吉良城[四連続堀切が残っているのですが…]その2 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

吉良城 レポ第2弾です。

 

 

その1のレポ

 

 

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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 説明

 

 

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ここまでは、疲れ、眠気などもある中で、なんとかモチベーションを

保っていたのですが、ここで、それがダダ下がりしてしまう状況が目の前に

登場しました。。

詰ノ段と、南ノ段という主要な曲輪を断ち切る形で設けられている 堀切

あるのですが、ここのメインは堀切というより、その間を渡している

竹橋なのですが…。

 

 崩落してしまっている…。

 

 

 

前回は、この竹橋を渡った記憶があるのですが、ここまで崩壊しているとは…。

これは渡る事ができないので、堀底まで降りて、渡る事に。

ただ、滑り過ぎて、降りるのも一苦労でした。

で、降りたら降りたで、竹橋の残骸が視界を邪魔してしまうという…。

もう踏んだり蹴ったりの状態です。

しかし、堀切単体を見ると、見事ですよね。

岩盤を断ち切って、幅はそれほどでもないにしても、昇り降りは決して安易には

できませんから。

 

 前に進んで行く、気力も消え失せかけていました。

 

 

 ただ、ここから引き返すのは、まだ選択肢にはありませんでした。

 

 

 

反対側に渡って、竹橋を見ますが…無残。

これなら、外してしまった方が良さそうですが…。

 

 トラテープも全く意味がありません。

 

 

 

サイドから見てみると、先程も書きましたが、堀幅はそうでもありませんが

岩盤を断ち切り、遮断するには十分ですよね。

 

 先だって見て来た、岩盤堀切に比べると、見劣りはしますが…。

 

 

 

いかん、モチベーションが上がってない城のレポをすると、ケチをつけてしまうアセアセ

城に罪はないのだが…。

話しを基に戻しましょう。

堀切を越えた場所にある削平地から、詰ノ段の切岸 が見えてきました。

 

 もう一度、テンションを上げようと頑張っていました。

 

 

 

そんなモチベーションが少し上がったのは、詰ノ段の石積 を見た時ですね。

光の加減で少々、見難いですが、細かい石を積んでいるのが判ります。

 

 いや、判り難い。

 

 

 

今では珍しくないと思っている、中世城郭での石積。

でも、そんな気持ちになっている現在でも魅力的です。

ただ、今回は、疲れすぎていたのか、どうも気持ちの高揚はあまりなかったアセアセ

 

 光が差していたので、見難いなぁ~。

 

 

 

という事で、正面から狙います。

 

話しは変わって、この城の城主であった吉良氏。

吉良氏と言えば、三河吉良氏(あの吉良上野介を輩出)が有名(たぶん)ですが

この土佐吉良氏は出自が違い、源頼朝の弟、源希義の子が祖とされています。

ただ、源氏ではなく、平氏の出自であるという説もあるそうです。

源希義は、平治の乱後に土佐に流されますが、兄の頼朝が挙兵すると、平氏に合力を

疑われてしまい、追討令が出ます。

彼は、協力する人物の元に逃れようとしますが、途中で討たれてしまいました。

後に、頼朝は土佐に軍を進めさせ、希義を討った人物達を討伐しています。

もし、希義が生きていたなら、頼朝との関係はどうなっていたんでしょうかねぇ~。

ただ、鎌倉殿の十三人を見た人間としては、結末は良くなかったのではとは

考えてしまいます。

尚、吉良氏と名乗ったのは、希義が亡くなった後に出生した、吉良希望です。

彼は後に、頼朝に謁見し、土佐吾川郡の数千貫と、三河吉良庄の三百数貫を

下賜されています。

 

 こっちの方が石積が判り易いですな。

 

 

 

主郭である、詰ノ段周囲…というか、東面は石積があったんでしょうね。

あの堀切から真っ先にやってくるのが、詰ノ段の東側なので、示威行為も

あったでしょうから。

 

 木の幹の間にも、石がへばりついています。

 

 

 

それにしても、石積の画、撮りまくってるなぁ~。

ここまで撮らんでもいいのに…。

 

 当時の心境は判りませんが…。

 

 

 

ただ、前回訪れた時の知識では石積=(イコール)後世のモノという間違った

認識があったので、この石積も殆ど、撮ってもいませんでした。

この時代にしかも四国において、石を積む技術なんてないと思っていたんですよ。

今では、間違った考えだったという事を思い知らされているので、バンバン

撮っちゃったんでしょうね。

 

 ただ、本物か偽物かの区別をつけるのは難しいです。

 

 

 

石積の話しはここまでに。

 

その後の吉良氏についてですが、鎌倉期は、北条の被官であった様ですが

元弘の乱では、六波羅探題を攻略し、南北朝期には当初、宮方として活躍します。

しかし、途中で武家方に寝返ります。

ただ、この時から一族の通字である『希』がなくなり、変わって『宣』を使う様に

なりました。

この際に、血統が変わったのではないかと考えられている様です。

戦国期には、細川政元の横死により、守護であった細川氏の影響力がなくなり

変わって、吉良氏も土佐七雄の一角を占める程、勢力を拡大。

岡豊城の長宗我部兼序を本山氏などと共に、滅ぼしています。

しかし、最後の当主、吉良宣直の時代に、本山氏によって滅ぼされます。

その後、本山氏が平姓吉良氏を名乗りますが、長宗我部氏によって駆逐されます。

そして、長宗我部元親の弟、吉良親貞が宣直の女婿を娶り、吉良氏を継ぎます。

親貞の死後は、吉良親実が跡を継ぎますが、長宗我部氏の跡目争いで久武親直と

対立し、その後、元親の逆鱗に触れ、切腹します。

 

 名家の跡目を継ぐ、戦国期の常套手段ですね。

 

 

 

詰ノ段 によじ登りました。

北側だけ見ると、ただ単に、削平地 という感がありますが…。

 

 これだけ見ればそうですが。

 

 

 

反対側の南端に、櫓台 がついています。

堀切を監視下に置き、そして、それを超える敵を迎撃するモノでしょう。

長宗我部氏の城というのは、土塁を持つ主郭があるイメージが強いです。

先日までレポをしていた朝倉城や長宗我部氏の本拠、岡豊城。

その他では、布師田金山城、安芸城、大津城などなど。

ただこの城は土塁ではなく櫓台。

まぁ、櫓台も土塁と一緒じゃと言われればそれまでですが…。

 

 同じような城は枚挙暇がない…っていう程、行ってないけど。

 

 

 

長宗我部氏の築城術には、この主郭の土塁の他、多連続堀切、畝状竪堀などが

あります。

もちろん、それがない城もありますが、何かしらあるという印象がありますね。

勿論、全て持っている城も、あります。

 

 蘊蓄はここまでに致しましょう。

 

 

 

詰ノ段から降りると、石が落ちていました。

 

 という事はまた…。

 

 

 

はい、石積 です。

上に載せた石積とはダブっていないと思います。

 

 あくまでも『たぶん』です。

 

 

 

さて、いよいよ、この城の最大の見所、サブタイトルにある四連続堀切を見る為

北ノ段 に降りようとしたのですが、この有様アセアセ

 

 猛烈な竹林と化してしまっているもやもや

 

 

 

ここで一気にモチベーションが『0』になってしまいました。

少しだけ、ここで問答していました。

見に行こうか、ただ、あの中を通過できるのかと。

しかし、体力的に限界、そして、堀切の惨状もあり、テンションがあまりにも

低かったので、ここで『勇気ある』撤収をする事にしました。

もう一つは行きたい場所があったのもあるのですが。

という事で、東側を落ちる 竪堀 を狙って、下山しました。

 

 ピントが手前の幹にあってしまっているが…。

 

 

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残念至極です。

朝倉城で体力を使い、さらにここに至る坂が滑りやすく、体力を奪われ

あの堀切の竹橋の惨状を見て、やる気を失い、さらに四連続堀切を見れないという

全く持って、散々な吉良城でした。

前回、見ていて、もう一度と思ったのですが、あのドラム缶が置かれていた堀切に

辿り着く事ができなかったのは痛恨です。

 

 

今回思ったのが、整備されているのは、素晴らしい事だという事。

ある程度、整備されていれば、何とかなるんですが。

もし体力があったら、まだ行けたと思いますし。

登れる道があるだけ、本当に有難い事です。

今後も、地元に方々が整備や掃除などをして頂いている事に感謝しながら

城に登らねばと思いました。

 

 

吉良氏について、蘊蓄を垂れましたが、僕の中では吉良親貞が印象に残ります。

長宗我部元親の次弟で、一条氏との戦いで指揮をとるなど勇猛な武将という

イメージがあります。

そして、その弟である香宗我部親泰も含めて、出来た弟だったのではと

思っています。

僕の中では、島津四兄弟、毛利両川にも負けず劣らず、長宗我部の三兄弟も

長宗我部氏の伸長を支えたと思っています。

しかし、長兄より先に、弟達が亡くなった事が、長宗我部氏のその後の暗雲に

繋がってしまったのではと考えています。

 

 

車は吉良城の案内板の南にあるスペースに停めました。

ただし、案内板は上に載せている説明版とは違います。

お手洗いはありませんので、国道56号線沿いなどのコンビニなどで済ませる

事をお勧めします。

探訪時間は1時間強でしたが、四連続堀切などを見るとすると+30分ほど

必要だと思います。