21.12.30 朝倉城[四国最大級の中世城郭]その10 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

朝倉城 レポ第10弾です。

 

 

その9のレポ

 

 

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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

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竪堀がある辺りから見た、高知平野です。

霞んでいるので、奥の方までは見えませんが…。

この高知平野は横に細長い平野です。

途中に丘陵部があり、途中で分断されている箇所はありますが、東は物部川流域

西は仁淀川流域までを差すそうです。

この平野部に、安芸氏と津野氏以外の土佐七雄が割拠していました。

今現在は、高知県民の大半が、この平野に住んでいます。

往時はどうだったんのか判りませんが、肥沃な平野部を狙って、山間部を

本拠とする、本山氏が南下してきたのも頷けます。

尚、手前を流れるのが、鏡川。

この上流部にイイ滝が結構あります。

 

 本山氏も、この川に沿って、勢力をここまで伸ばしたのでしょう。

 

 

 

丁度、土讃線の普通列車がJR朝倉駅に到着しよとしてますが…小さくて

判んないでしょうがアセアセ

 

 写真の中央を凝視してみてください。

 

 

 

この城と言えば、この概念図です。

朝倉城の遺構を網羅していますね…ってこれって岡豊城にもなかったっけ?

 

 気のせいかもしれませんけどね。

 

 

 

誰じゃ!

こんなのところに眼鏡(サングラスかも)をひっかけているのは!

 

 どういうシチューエーションでサングラスをここに掛けて忘れるのか…。

 

 

 

では、この城、最後の目的地に向かいましょう。

 

 この城の比高が高くないのが、この画で判りますね。

 

 

 

主郭へ向かう道なのですが、サイドにまたもや怪しい石積が。

しかも、石積が崩れているのか、石畳状態の道になっています。

ここ本当に歩きにくいんですよね。

 

 捻挫しないように注意です。

 

 

 

この石積の上は 削平地 です。

恐らく、ここは 三ノ段 です。

三ノ段は帯曲輪の様で、主郭周囲を廻っています。

 

 相当荒れ放題ですが…。

 

 

 

通路の反対側も荒れ放題。

恐らく、往時は通路がなく、削平地が繋がっていたのではと思います。

何せ、虎口という概念がなかったハズですから。

 

 たぶんね。

 

 

 

荒れ道を通過すると、いよいよ主郭が見えてきました。

が、ここは一旦、スルーします。

 

 何時もなら先に登っています。

 

 

 

この背後も三ノ段の 削平地 が廻りこんでいます。

あの先に落ちたところに、横堀が走っています。

さすがにあそこまで行く、勇気…というか、そんな事は思いつかなかったアセアセ

それにしても、ここも竹が猛威を振るってますなぁ~。

 

 右から徐々に攻めてきておるなぁ~。

 

 

 

詰ノ段の北西下にあるのが、井戸 です。

石積が新しすぎるって思われるかもしれませんが、南海地震の際に崩れたので

地元の方が、組み直したようです。

現在、熊本地震で被害のあった熊本城では石垣を含めて、修復をしています。

先だっての能登の地震でも、金沢城でも、崩落した場所があります。

やはり地震というのは、人の生活を破壊してしますと同時に、史跡なども

壊してしまう、非常にコワイ災害です。

ただ、熊本では既に行われていますが、シンボルを基の姿に戻そうとする

地元の人の尽力は、言葉で言い表せない努力があるでしょう。

規模や知名度は違えど、この朝倉城を愛する方がこの石積を築き直すという

事も、同じ気持ちがあったのではないでしょうか。

 

 井戸の底はドロ色ですが…。

 

 

 説明

 

 

 

西に廻りこんでいくと、詰ノ段と詰西ノ段(手元の縄張図には西一ノ段)の間の

堀切 があります。

ただ、この堀切、幅が広すぎるんですよね。

周囲の三ノ段とほぼ同じ高さにあるので、最初に訪れた時から?がついています。

もしかしたら、往時はもっと穿っていたのかもしれませんが…。

となると、ここも後世に畑地になっていたのかもしれません。

ちなみに、西一ノ段 は雑木林化して、何時も入る気になりません。

 

 右(西)の木々が鬱蒼としているのが西一ノ段です。

 

 

 

井戸の傍に戻って、詰ノ段の切岸 を見ますが…貧弱だなぁ~。

今迄見て来た、それとは、比べれない程、高さもないんですよね。

ちなみに、下には石積が…ハッ!

もしかして、井戸の石組を直したのも、畑地の水源の為だったのでは…。

という事は、城を愛でる以上の事だったのでは…。

 

 美談の様に書いてしまいましたが…真相はいかに。

 

 

 

では、この城の主郭、詰ノ段に向かいます。

 

 この時点、12時手前。

 

 

 

詰ノ段の手前に到達すると、曲輪を守る 土塁 が登場します。

ただ、その土塁は、かなり低いです。

 

 やはり貧弱に見える。

 

 

 

詰ノ段の内部に入りました。

そこから、少しズレた場所にある 土塁 を。

そう、土塁は土取りされたのか、間に隙間が空いてしまっているんですよね。

 

 最初に見て時は?ってなりました。

 

 

 

この低い土塁も、南東部の一部のみしかありません。

往時は一周していたのかもしれませんが、今となっては確認できません。

発掘調査なんかしたら判るかもしれませんが…。

 

 ほんまどうだったんでしょうか。

 

 

 

詰ノ段 です。

桜の木が植わっていて、そしてお社があります。

春には、花見の方もいらっしゃるのかもしれませんが、この主郭。

朝倉城の規模からいくと、とても小さく感じます。

何故、こんなに脆弱なのか。

もしかすると、主郭機能は、隣の西一ノ段だったのではと思っています。

比高は恐らく変わりませんし、あちらの方が断然、面積が広いです。

面積云々で決めるのはどうかもしれませんが、そう感じてしまいます。

 

 猪が掘った様な場所も散見されました。

 

 

 

そして、その西一ノ段。

何故、あんなに雑木林になっているんだろうというくらい、木々で鬱蒼と

してしまっています。

間にあるのが、先程、登場した堀切です。

 

 基本、荒地となっているのが朝倉城です。

 

 

 

詰ノ段の東にあるのが、二ノ段 なのですが…ここも竹林化してしまっているアセアセ

そして、その詰ノ段と二ノ段の境目…切岸とまではいかん… 土壇 と言える

かもしれませんが、低いですね。

もしかすると、この辺りは、築城当時からあるモノなのかもしれませんね。

従って、本山氏の時代から…まぁ、もっと以前からこの城があったかも

しれませんが。

 

 やはり脆弱に見えますよね。

 

 

 

そんな竹林化してしまっている二ノ段に、降りる事ができたのでしょうが

疲れが満載していたので、立ち入る事はありませんでした。

 

 見所もそうありませんから。

 

 

 

そんな二ノ段の下の三ノ段(という事は一旦、二ノ段に降りてるんだな)には

曲輪を横断する形で 土塁 が走っていました。

そして、右(西)には写っていませんが、堀切があるようです。

従って三ノ段は、この堀切で分断されてしてるのです。

土塁を固めて、さらに移動を困難しています。

この土塁と堀切は、その3で登場する、横堀の先まで進んでいるようです。

 

 主郭周辺では、一番の見所…だと思います。

 

 

 

では、そろそろ…約4時間、漂流した朝倉城を後にします。

堀切に降りて…。

 

 『堀切』かと疑わている堀切が何度も登場しています。

 

 

 

帰り道の途中に見えるのが、西一ノ段の 切岸

こんなの立ち入る事は不可能ですわなアセアセ

 

 ここも竹の強さが…。

 

 

 

最後に登場は、三ノ段 です。

奥には 土塁 が見えますね。

ちなみに、三ノ段が見れるのは、ここだけです(たぶん)

 

 という事で、これにて朝倉城レポ終了です。

 

 

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長い長い朝倉城レポが終了しました。

四度目の訪城でしたが、この城の『凄み』を改めて、思い知りました。

ここまで土木量が豊富だったのかという事は、今回行った事で驚きを

禁じえませんでした。

南面の最初に登ってくる竪堀や、途中にある横堀。

そして北面の横堀に、竪堀のエゲツなさは、本当にスゴイという言葉しか

出てきませんでした。

ただ、それを見ている自分としては『楽しい』しかありませんでしたね。

残念ながら2年経っているので『ここがココ』というのに認識に狂いが

あるかもしれませんが(いやそういうのがイカンのやけど)、ファインダーを

覗きまくって、シャッターを響かせていました。

そして、一番喜んだのが、今迄見れなかった三連続堀切。

丁度、良いタイミングでこの城を訪れたのかもしれませんが、今迄見れなかった

遺構を見れると喜びは、城巡りをしている人間としては、言葉に言い表せません。

言い過ぎでしょうが…。

 

 

ただ、本編でも書きましたが、何故にあれだけ豪快な遺構が周囲にあるのに

主郭周辺が貧弱なのか。

まぁ、見れる範囲があまりないので、探訪ができないというのが正直な

ところではありますが、詰ノ段なんか狭くて、とても豪快な堀群とは

不釣り合いなんですよね。

でもよく考えると、長宗我部氏の本城である、岡豊城もそうだなと思います。

改修されて、枡形虎口などができていますが、曲輪もそう大きくないのは

類似していますよね。

似ているというと、茶ヶ森という出城ですが、岡豊城にも伝厩跡曲輪も

同じ様に、出城がありますね。

という事で、私はこの城が、長宗我部の改修が加わったと思っているんです。

 

 

それにしても、上でも書きましたが、あの三連続堀切は本当に感動モノでした。

まさか、まさかで。

今迄、見る事ができなかった場所が見れるという体験が、ここで出来るとは

思ってもいませんでした。

何年に一度の御開帳というのがありますが、ちょっと違う(違い過ぎるが)

とは思いますが、それだけ価値がある事だったと思います。

 

 

朝倉城には、車でお越しの際は、城の南に、写真中央にある北城山公民館

に一台だけ停めるスペースがあります(載ってないけど)。

お手洗いはありませんので、麓のコンビニなどでをご利用できれば。

探訪時間は4時間強でした。