朝倉城 レポ第4弾です。
その3のレポ
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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル
現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ
跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。
縄張図
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竪堀の西には、またまた 横堀 が入っています。
しかも、この横堀はかなり深い
こういうのを待ってたのよぉ~
真横から見ても、深さを実感できますね。
この深さは、左(南)を走っている、土塁 の高さも相まっているからでしょう。
ホント、この城の遺構のパーツはデカイ
土塁側の傾斜がキツイですね。
この横堀の北に聳えるのが、三ノ段の切岸 です。。
前回、既に登場しているこの切岸。
ただ、超がつくような絶壁ではないイメージがあるんですよね。
斜面が滅茶苦茶、急ではないからでしょうか。
とはいえ、人が登るのは至難の業でしょう。
で、この切岸の印象ですが、築城当時もしくはその直後辺りからったような
佇まいなんですよね。
今迄見て来た遺構は、堀や土塁とかなり技巧的なのに対して、原始的(言い過ぎ)
なパーツである切岸。
しかも上でも言いましたが、やや傾斜緩い感じを受けますしね。
ちなみに、この場所からだけかもしれませんが、木々も程よくないので
切岸の全貌がハッキリと判ります。
鬱蒼とした切岸が多いですからね。
もう一度、振り返る形で横堀を見ます。
やはり、この横堀も深いですなぁ~。
この横堀も、片薬研堀の形状に見えます。
横堀が切れた辺りの南側に、竪堀があると、縄張図に記されていますが…。
何じゃこりゃ
この朝倉城は、二つの頂きで形成されており、東側に主郭があります。
で、その東側がメインである様な形状をしています。
そのメイン側の西を守るのが、この 堀切 です。
傾斜は緩いですが、高くて深い、堀切です。
先程、何が何だかと言われた竪堀は、この堀切の延長線上にあります。
この堀切は後で、また通ります。
堀切から見た、三ノ段の切岸 。
ここも傾斜は緩やかですね。
とはいえ、比高差はかなりのモノがありますね。
尾根伝いの西側は主郭の弱点だけに、この堀切の重要性はこのエグさから
垣間見えます。
崩れているのはあると思いますけど、この高さは圧巻です。
この堀切の西をよじ登ってみました。
縄張図には削平地とはなっていません。
実際、登って見てみると、凸凹していました。
連続堀切っぽく見えますが、違います。
登った場所から見た堀切です。
正直、この角度からだと、この堀切の凄さは判らんですな
やはり横から見た方が『堀切』というのも判りますね。
この辺りにも石積が見られました。
ただ、その3で書きまいたが、この城の石積については非常に懐疑的です。
しかも、ここの石積は新しいように見えるんですよね。
その3で登場したそれなら、崩れているんで、まだ往時のものかなって
思えるのですが、ここのは…違うでしょ。
怪しいのに載せてしまう…。
しかも、もう一枚撮ってますね。
斜めから見ると、カッコよかったという感じだろうか…。
今となっては謎です。
先程、削平地ではない場所を載せましたが、その西北方面には 竪堀 が
落ちていました。
少し屈曲させて、下に走っていました。
この竪堀も深くて、見応えありです。
ここまで、竪堀を4本(1本は殆ど判らず)見てきました。
其々の間隔が結構ある様な竪堀群です。
ただ、この様な竪堀の配置というのは、土佐の城の中では異色の存在では
ないでしょうか。
どちらかというと、畝状竪堀を持つ城が多い様な気がするんですよね。
私が行った城の中では、岡豊城、松尾城などがそうです。
しかもその畝状竪堀は、曲輪下から放射状に広がっています。
四国内では、讃岐の王佐山城にも、同じタイプのモノがあります。
違う形状ではありますが直線の斜面に畝状竪堀を展開させる畝状竪堀が
久礼城にありました。
これらは全て、長宗我部氏の勢力圏内の城郭です。
しかし、この朝倉城は、畝状竪堀ではなく、間隔が開いた竪堀が展開
しています。
長宗我部氏の中でも色んなタイプの城がありますが、その一つなのかも
しれません。
今迄行った事ないだけで、探せばあると思います。
岡豊城レポ
松尾城レポ
王佐山城レポ
久礼城レポ
イイ角度が見つけたので、もう一度、竪堀を狙います。
以前にも書きましたが、竪堀って昔は希少価値だと思ってたんですよね。
しかし、今となっては、結構、色んな場所で見ています。
ちなみに、我が街にある川之江城にも、竪堀があるんです。
あっ川之江城の竪堀も、間隔が開いている竪堀じゃわ
ここを降りて行こうという気力は全くありませんでした。
この竪堀より西には、こんな削平地があります。
でも、これは後世に開墾されたと考えられます。
一番最初に訪れた時は、畑地だった様な記憶が残っています。
この奥にも、遺構が残っています。
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その4はここまで。
その5に続きます。