16.12.31 躑躅ヶ崎館[甲斐武田氏の居城]@山梨県甲府市 その1 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

獅子吼城での無念さを現地に残し、中央道に乗って甲府市内に向かいました。

年末ですが、上りという事で混雑なく進みます。

まぁ車の台数はやはり多かったですけどね。

全く知らない場所で高速に乗ると、あまり見かけないナンバープレートが見られるのが嬉しいですよね。

いつも『愛媛』ナンバーばかり見ていますから。

甲府インターで高速を降り、甲府城を横目に見ながら甲府駅の横を通過し、いよいよ躑躅ヶ崎館

武田氏館 )に到着しました。

 

 

  ----------------------------------------

 

 

現存物 (移築含む)はブルー、再現物 (模擬含む)はパープル、跡地 (櫓跡など)はグリーン

そして見所となる遺構 (土塁や曲輪など)はピンクで表記します。

 

 

 

 縄張図

 

 

 縄張図

 

 

 鳥瞰図

 

 

 武田神社全図

 

 

 説明

 

 

 説明

 

 

 古府中図

 

 

 現代の図

 

 

 

日本城郭大系によりますと…。

 

武田信虎が守護領伝来の地峡東から、甲府の躑躅ヶ崎に移築の工事を起こしたのは、永正16年

(1519)の事で、信虎26歳の時です。

8月に鍬立式(起工式)を行ってから四か月後の12月に工事を終え、翌年3月に落慶の法会が

行われています。

以後、天正9年(1581)12月24日の新府城への移転までの六十余年、ここを甲斐武田の本拠と

なし、戦国の雄として武威を天下に振るいます。

 

ところで、築城後まもなくの甲斐を巡る情勢は平穏とは言い難かったようです。

栗原氏を始め、大井氏今井氏の有力国人層が武田氏への被官化を嫌って反抗します。

それに乗じた外国勢力の北条氏今川氏諏訪氏の侵攻もあり、大永、享禄(1521~1532)

を通じて、武田氏はこれらの国人層の制圧と、家臣化に苦心します。

しかし、こうした武田氏への抵抗や侵攻も天文年間(1532~1555)には影を潜め、築城から

十余年後には、武田氏は甲斐の領国統一に成功し、領国内での政治的、軍事的主導権を確立

守護大名から戦国大名に脱皮します。

 

元亀3年(1572)に武田信玄は遠江の三方ヶ原の戦い徳川家康に勝ち、勢いに乗じて三河

侵入しますが、間もなく陣没します。

その跡を継いだ武田勝頼は武田氏の武威を維持しようと、三年後の天正3年(1575)に織田信長

徳川家康の連合軍を相手に戦いますが大敗します。

長篠の戦いです。

これをきっかけに甲斐武田氏は衰退するが、家運を挽回しようと勝頼は、天正9年(1581)に

躑躅ヶ崎館を捨て、新府城に移ります。

 

勝頼は長篠の戦いの翌年の天正4年(1576)に、詰城である要害山城の修築に着手しています。

しかしこの時代には既に安土城に代表されるように、居館と詰城を分離した中世城郭から大規模な

近世城郭への脱皮が各所に現れており、従ってこの風潮の中で新府城は旧体制を打破した

新しい領国支配の確立と決戦に耐えうる拠点作りを目指して築造されたのです。

躑躅ヶ崎を破却して移転を強行したようですが、甲府を去る事に親族衆を強い抵抗を示し、これが多くの

家臣団の離反を引き起こした遠因となります。

 

天正10年(1582)3月甲斐武田氏は滅亡します。

以後、甲斐は徳川家康が領治する事となり、躑躅ヶ崎館は再び使用されます。

 

 

  ----------------------------------------

 

 

当初、予定していた武田神社前の駐車場は満車。

という事で、第二駐車場に車を停めて、いざ躑躅ヶ崎館探訪開始!

 

 富士山を拝んでいざ!

 

 

 

横堀水堀 )を横目に見ながら。

 

 えらい、水が濁っているなぁ~。

 

 

 露店の準備が着々と進んでいました。

 

 

 

最初に向かったのが梅翁曲輪 です。

と言っても中には入れず、外側から見るだけですが。

 

 かなり殺風景ですが…。

 

 

 

外側には横堀 が残っていましたし、縁には石がゴロゴロと。

もしかすると、石垣の残骸 なのかもしれません。

 

 武田滅亡後の築造なので大いにありえます。

 

 

 

現在、整備中なのか、伐採した木々が逆茂木のような状況になっています。

そう見えてしまうというのが末期症状かもしれませんがアセアセ

 

 

 

 今に始まった事ではありませんけどねニヤリ

 

 

 

今後、どのような整備がされるのでしょか?

少しワクワクする梅翁曲輪でした。

 

 巨大な梅翁曲輪でした。

 

 

 

この躑躅ヶ崎館の楽しみの一つが、武田二十四将の屋敷跡の探訪だと思います。

前回は全くそんな事もできる余裕もなかったのですが、今回はこれを折り込み済みで時間設定を

していたので、かなりの数の屋敷跡を巡れました。

早速この梅翁曲輪の南にその屋敷跡がありました。

 

 

 

まずは、内藤修理亮昌豊の屋敷跡です。

武田四名将の一角でもある内藤昌豊。

しかし、個人的意見としては、他の三人と比べるといくらか地味な印象を受けます。

とはいうものの、第四次川中島の戦いに於いては、妻女山攻撃の別動隊の大将を務めていますし

信濃深志城代上野箕輪城代などと、武田氏にとって重要な支城を任されているなど、武田信玄

からの信任は厚かったのでしょう。

また四名将の一人、山県昌景からは『古典厩信繁武田信繁)、内藤昌豊こそは毎時相整う

真の副将なり』と絶賛されていますし、地味ではありますが、武田の柱石の一人には間違い

なかったのでしょう。

また、信玄は昌豊に数々の戦功をあげていますが、感状を出さなったそうです。

そして昌豊もそんな事を全く意に介さなかったそうです。

昌豊の最期は長篠の戦いです。

馬場信春と共に武田勝頼を逃す為に戦場に踏みとどまり、徳川家臣の朝比奈弥太郎に討ち取られて

しまいます。

尚、本名は昌豊ではなく、昌秀であったそうです。

 

 地味地味言うなと怒られそうですねアセアセ

 

 

 

お隣には武田信虎武田信玄と二代に仕え、武田家内重きをなしてた、板垣駿河守信方

屋敷跡です。

何といっても、信虎追放の立役者ですよね。

信玄の家督相続後は、甘利虎泰と共に両識となるなど、武田筆頭家老として辣腕を振るいます。

特に、武田の最前線でもあった諏訪郡代になり、上原城を任されます。

そして信濃平定の為に縦横無尽に働き、諏訪佐久などで戦功をあげていきます。

しかし、信方は村上義清との上田原の戦いで戦死します。

ちなみに子孫に、板垣退助がいます。

 

 彼が川中島まで生きていたらどうだったんでしょうね。

 

 

 

お次は馬場美濃守信春屋敷跡です。

言わずと知れた馬場美濃。

武田四名将の一人で、馬場民部少輔とも名乗っていましたね。

築城の名手と言われて、今までに訪れた中では古宮城押の築城に携わっているとされていますし

翌日訪れる諏訪原城も彼の築城だと言われており、数々の城の築城、改修に携わっています。

かの山本勘助から築城術を学んだとか。逸話としては、駿府の今川館の焼き打ちの際、武田信玄が財宝を持ち出すようにと指示を

出しますが

彼は『戦中に財宝を奪うなど貪欲な武将と後世に笑われる』として全て焼き払い信玄に

確かに理にかなっている。さすが七歳年上なだけはある』と言わしめています。

三増峠の戦い三方ヶ原の戦いで戦功も挙げており、最期の地まで傷一つ負わず、『不死身の

馬場美濃』などと呼ばれています。

そんな馬場美濃の最期の地は長篠の戦い

武田勝頼の退却を見届けると、殿軍であった彼は反転し追撃する織田徳川連合軍の戦いの中

散っていきました。

信長公記でも『馬場美濃守手前の働き、比類なし』と評されています。

 

 武田の名将の代名詞ですね。

 

 

 

さてさて、武田の武将の中で一番好きな人物の屋敷跡です。

って、恐らくそういう方が多いと思いますが、武田典厩信繁屋敷跡です。

言わずもがな、武田信玄の弟ですね。

父の武田信虎は、信玄ではなく信繁に家督を譲りたかったそうです。

それだけ聡明だったとい事なのでしょう。

また、信玄が家督を相続しても、揉める事もなく、兄に従って信濃平定戦などで活躍します。

諏訪出兵では大将として板垣信方と共に主導したり、高遠頼継の謀叛の際にも鎮圧の大将を

務めています。

また、村上攻めの先衆としても活躍。

さらに、信濃の所族懐柔策の一環として、庶長子を望月氏に養子(望月信頼)に出しています。

武田家臣団の中では、弟の武田信廉と共に武田姓を許され、御一門衆筆頭に位置し、甲府に在住し

合戦に際しては信玄の名代として軍事指揮権を発動して、先衆を統制する立場だったようです。

信繁は嫡男の武田信豊に、九十九条家訓を残しています。

これは江戸期になると武士の心得として広まり、『まことの武士は武田信繁』と言われるまでになります。

そんな信繁の最期は第四次川中島の戦い

妻女山から下りて来た上杉謙信勢の猛攻の前に、奮戦しますが戦死してしまいます。

一説には、武田と因縁浅からぬ、村上義清が討ち取ったとされていますが、山寺左五左エ門が首を

上杉勢から奪い返したとされています。

信玄は信繁の亡骸を抱きしめて号泣されたとされ、敵の上杉謙信もその死を悼んだそうです。

また山県昌景は『惜しんでもなお惜しむべし』とその死を悔やんでいます。

昌景は『古典厩信繁内藤昌豊こそは毎時相整う真の副将なり』と言ってます。

昨年の大河ドラマ、真田丸でも真田昌幸が語ってましたが(多分)、次男に真田信繁と名付けたのも

武田信繁にあやかってと言われています。

 

 信繁が長い生きしていたら、武田の行く末も変わっていたでしょうね。

 

 

 

その1はここまで。

その2に続きますm(_ _)m