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今日の文字は

 

 

 

10日の「ブラタモリ」は「鎌倉の寺」

お題は「北条氏の寺でわかる!鎌倉幕府の偉業とは」

 

今回は源氏は三代で終わりその後約120年間、事実上の鎌倉幕府の

最高権力者であった北条執権家が建てたお寺を巡り

鎌倉幕府の果たした偉業を見ていきます。

 

まずは、年間50万人が訪れる「建長寺」から。

建長5年(1253年)五代執権北条時頼が南宋の禅僧

蘭渓道隆を初代住職に迎えて建てられた禅僧寺院です。

 

全てにおいて中国様式を取り入れています。

 

当時の日本は舶来品、いわゆる「唐物」を持っていると

いうことが権力の象徴でした。

 

これは京都や奈良と違い鎌倉のは既存の文化がなかったため

できたことです。

 

日本初の武家政権が鎌倉で誕生したからこそできたことです。

 

そして、その文化は京都にも影響を。

中国の禅僧寺院の庭はお寺の前にありますが、鎌倉は谷戸(谷)が

多く、水を取り入れやすいためお寺の奥の山側に庭が。

 

京都の天龍寺もここにならってお寺の裏にお庭があります。

 

次に向かったのは車で20分ほどの「極楽寺」

二代執権北条義時の息子、重時によって建てられました。

 

まずは奥の院にある開祖忍性のお墓にお参り。

3m以上もある五輪塔です。

 

忍性は奈良から石工集団を連れてきてこれを作らせました。

忍性は鎌倉幕府の依頼を受けこの石工集団を使い190か所に橋をかけ

70か所の道の整備をしました。

 

「極楽寺」は当時は子院49か所を有する大寺院でした。

 

ここには「興福寺」、「東寺」、「熊野三山」など

京都、奈良、和歌山の寺院を模して建てられたお寺が。

 

なぜこのようなお寺をつくったのか。

 

それは鎌倉時代、モンゴル帝国が二度に渡り日本に

攻め込んだ「元寇」のため。

 

鎌倉幕府は「元寇」が九州を制圧し、瀬戸内海から

近畿に入ってくれば、日本の最大の霊場、神様、仏様が

モンゴルに抑えられてしまうかもしれない。

 

そのための文化的な疎開事業ではなかったのかと。

大仏も東大寺の大仏を意識したものだったのでは。

 

次はなぜか横浜市の「金沢八景駅」近くに。

鎌倉時代はここが鎌倉の東のキワでした。

 

ここには港があり、中国の輸入品を乗せた船も。

この港を守ったのが「金沢(かねさわ)北条氏」

 

その金沢北条氏がつくったお寺が「称名寺」

ここで鎌倉幕府の偉業がわかる場所は称名寺のトンネルの先。

 

トンネンは当時のものと新しいものがあり

タモリさんたちが新しいトンネンを通った先にあったのは

「金沢文庫」

 

「金沢文庫」は鎌倉時代に金沢北条氏がつくった

プライベートライブラリー。

 

今は県立博物館「金沢文庫」です。

 

「金沢文庫」は「称名寺」とトンネンで繋がっており

鎌倉幕府滅亡後、称名寺が守ってきました。

 

およそ11万点におよぶ資料の内、およそ2万点が国宝です。

 

中には、金沢北条氏が都で自ら書き写したものもあります。

鎌倉のために金沢北条氏が勉強した書物

それが金沢文庫の書物です。

 

幕府滅亡後、一部が流失し武将から武将への献上品に。

金沢文庫の書物を持っていることがステータスに

なっていきました。

 

また、もうここにしか残っていない書物もあり

世界中から注目を集める貴重な書物を所蔵しています。