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今日の文字は

 

 

 

3日の「ブラタモリ」は「武士の都・鎌倉」

 

ブラタモリ、8年ぶりの鎌倉です。

今回は800年前に頼朝がつくった

日本初の本格的な武士の都を見ていきます。

 

参考にするのは家康の愛読書でもあったという

鎌倉幕府公式の歴史書「吾妻鏡」

 

1180年10月6日、頼朝相模の国(鎌倉)に到着。

その6日後に鶴岡八幡宮を現在の場所に移しています。

 

それでは元はどこにあったのでしょう。

 

タモリさんたちは南に1、5㎞ほど離れた住宅街に。

現在は「由比若宮」に。

 

頼朝の先祖が建てた神社です。

この神社を鎌倉の中心に据えました。

 

1182年3月15日 頼朝の指揮の元、由比ヶ浜まで

続く参詣道が作られました。

 

道幅33mあったという若宮大路です。

 

二の鳥居まで来てみます。

段葛(だんかづら)と呼ばれ一段高くなっています。

 

これはこの参道が谷筋に作られているため。

 

谷戸(やと)と呼ばれる谷が複雑に入り組んでいるのが

鎌倉の地形の特徴です。

 

さらに頼朝がおこなった湿地対策があります。

巾3m深さ1mの側溝が両側にありました。

 

しかし、側溝があったのは二の鳥居から。

それより前はどうなっていたのでしょう。

 

タモリさんが見つけたのは今は暗渠になっている川。

この川は谷戸から若宮大路の方に流れています。

 

この川が排水溝と合流して90度まわり海に排水していました。

 

鶴岡八幡宮の周りにも谷戸を流れてくる水を利用して

堀にして排水溝に流していました。

 

タモリさん「なかなか緻密な人ですね」

 

頼朝のまちづくりのポイントは水を巧みに操る。

 

次は頼朝がいた幕府があった場所に行ってみます。

 

1180年12月12日、大倉郷に引っ越した。

「大倉」はどこにあるのでしょう。

 

さっそく、八幡宮のすぐ東「大倉」へ。

学校のグランドに沿って工事が。

普段は学校の地下を流れている川がみえます。

 

昨年、工事現場から柱の後が。

門の跡です。

 

地名に「西御門(にしみかど)」が、

どうやらこの辺りに西の門が。

 

もしかすると、東のはじの方にも川が流れているのではないか、と。

 

東の方にいってみると川を発見、そこには「東御門川」と。

 

タモリさんたちは幕府の範囲を確認。

 

しかし、デベロッパー頼朝には、まだ作りたいものがありました。

ここで電柱の表記を確認すると「二階堂」

 

二階建てにみえる立派なお堂がありました。

頼朝が作った武士の都の総仕上げともいえるお寺です。

 

現在は残っていませんが、どんなお寺だったのかということを

探るために行ってみます。

 

500mほど北東に。

 

大きな池があります。

ここには頼朝が建てた「永福治(ようふくじ)」という

お寺がありました。

 

復元図で見てみると宇治の平等院鳳凰堂によく似ています。

「極楽浄土」を表しています。

 

野口アナ「池は大切ですか」

 

池は極楽の中にある宝地を表しています。

 

この庭園を造る際にも頼朝が自らいろいろと指示を

していたことも吾妻鏡には書いてあります。

 

なぜ頼朝はこの寺を建てたのでしょう。

頼朝がこの寺を建てると言い出したのは1189年12月。

 

この年に奥州合戦があり、奥州藤原氏を滅ぼしました。

これにより頼朝は武士の頂点に立ちました。

 

このお寺は頼朝の権力をみせつけるためのお寺

武士の都の総仕上げにふさわしい寺でした。