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9日の「ブラタモリ」は「燕三条」

お題は「燕VS.三条モノづくりの町 発展のカギは?」

 

今回の始まりは新潟の「燕三条駅」の前から。

しかし、燕三条市という市はありません。

 

燕三条駅は燕市と三条市の境にあります。

というわけで今回は案内人の方も燕市と三条市のお二人。

 

まず燕三条といえば洋食器。

ノーベル賞の晩餐会で使用されているカトラリー(フォークやナイフ)は

燕市産。

 

まずは燕三条のものづくりはどう生まれた?かを知るために

三条市へ。

 

目の前を流れる川は越後平野を流れる信濃川。

かっては頻繁に洪水を起こしていました。

 

1,000年前にこの辺りを描いた絵図で見てみると

三条は書いてありますが燕はありません。

 

かっては3年に一度氾濫するため川が変化、平野部が

海のように表現されています。

 

そのため平野があっても米が作れません。

ということで、この地域にものづくりに芽生えていきました。

 

では三条でものづくりがどう始まったかみていきます。

たどり着いたのは橋の上。

 

ここは信濃川と五十嵐川が合流するところ。

東側の山の向こう側が会津、そこからものづくりの技術が

伝わってきました。

 

そしてこのように川が交わっている三条の町には

五十嵐川からは燃料になる木炭、日本海に通ずる信濃川からは

原料とする鉄がが集まってきました。

 

そんな三条で江戸の初めに作られたのが「和釘」

当時、江戸の町は建設ラッシュ、そこで必要となったのが「和釘」

 

その後、三条で作られた様々な鉄製品は全国各地に広まりました。

なぜ、それがわかる場所に。

 

ここは三条で製品の流通を担ってきた三条商人のお宅。

そこで見せていただいたのが「鎌形帳」

これは三条商人が全国津々浦々を歩いて集めた地域別の

鎌の形が書いてあるもの。

 

この情報を職人さんたちに提供し、安く作ってもらい

全国の注文に応えました。

 

このため全国から注文がきて広がりました。

 

こうして三条商人が仕事を依頼したため生まれた町があります。

燕市です。

 

タモリさん「地図に地名すらなかったのにね」

 

しかし、燕の職人さんたちは常に安い依頼で不満をもっていました。

江戸時代の中頃にあるものがみつかったことで

燕は三条に頼らず独立することができました。

 

タモリさんたちは20㎞西にある海岸に。

佐渡島がうっすらと見える日本海側。

 

そこの砂浜で見たのは「銅の原石」

この石を生んだのは「弥彦山」

 

タモリさん「あの山にそうとうあるね」

 

弥彦山に銅山街が開かれ、大正時代ひと月に50tの銅を採掘。

 

銅は常温で加工でき、たたいて作ります。

きせる、やかん、矢立など。

 

燕は銅製品を生産したことで、より高い加工技術が産まれた。

 

タモリさん「独自の町になったわけですね」

 

長くなりましたので次回に続きます。