文学を学問として志したのはいつだったろうか。ハッキリした「点」はなかったが、徐々に靄が晴れるような感覚で文学に近づいた気がする。最初に創作した文は小6の時。齋藤の書いた「かげろう」に触発された「幸福」という脚本か。それとも、ミネモトさんと別れる時に書いたビックリするほど長い日記か。確か、大学ノート4ページくらいあったが…。だが、それらは書く楽しみではあったものの、文学には程遠く、本格的に足を踏み入れたのは高校の頃にマチネポエティックを知ってから、か。音韻を重視した詩の美しさは立原道造の詩を見るまでもなく、ロマンの塊であった。


高校3年の頃、受験勉強の傍ら、書き付けた。ノートに言葉を殴り書いた。ただの言葉が、生き物のように蠢く。すると、ストーリーが始まる。とはいえ、本格的に書くのは大学に入って~やな。と、思い当たる。高校の頃は短編を3作書いて終了。あとは、マチネポエティックもどきの詩を書いて終わる。


大学入学。文学部とは文学に関わる様々なものを研究する場所だと知り、幻滅。そりゃそうだ。文学部が作家志望の添削なんぞできるわきゃぁない。上京してすぐ、文学の雑誌を定期購読した。「海燕」「群像」「文藝」「文學界」…。要は、新人賞を主宰している雑誌。すると、早速、衝撃。確か文學界だったと思うが、上智に入ったばかりの女の子が新人賞を授賞した。鷺沢恵。彼女の文章を見て、自分がいかにガキっぽい文を書いているかを痛感した。内容は好きだったマンガと似ていたので、んっ?とは思ったが、まあ、それはさておき。文章力に負けたのだ。それが大学1年の夏。文学をさっさと諦める。


そこからの私は水泳との人生。


だが、水泳との関係も1995年に自ら断ち切る。


ふと、本屋に行った。久々に鷺沢恵の本を立ち読みした。んっ?こんなに幼い文だったんか…?


そんな頃、転職をした。最初の1年、仕事の内容、そして、何より時間帯に慣れることに全勢力を傾けた。そして、上司からワープロを払い下げられる。なかなか打てない時、気がついた。そうだ、何かを見ながら打つからあかんのや!頭の中にある文章を打てばワープロを打つ練習ができるわ!


そう思った日、ラジオから流れた曲。今でも忘れられない。原稿用紙324枚の原稿を書きながら、たまに、懸賞ガイドの応募もした。銀座にある洋菓子「ウエスト」のリーフレットなども、この曲からのイメージで書いたら採用された。


この曲、一冊の本を書く原動力になったことは間違いない。ただ、他の曲を一切知らないが…


「ロビンソン」 スピッツ