高知に転居して4年目。当初の頃に感じていた「田舎嫌悪」が薄まり、むしろ青春を謳歌し始めたのが高校2年の夏明けだった。競泳の選手としての活動を父に半ば無理やり止められ、受験勉強に入るという建前ではあったものの、実際には放課後の空いた時間で友人たちとダベり、新たな世界を友人たちに教えてもらい始めた頃だった。母校土佐では高校2年から3年にかけてクラス替えがなかった。そのクラスは問題児が多く集められた、と当時の主任(土佐では担任のことを主任と呼ぶ)が在学中からこぼしていたものだ。だが、「問題児」とはいえ、進学校の中での問題児に、そうそう悪いやつがいるわけではなく、進学校の尺度に合わない程度のものであった。中でもバド部のマナブ、帰宅部のキラ、この2人とはやたらと語ったものだが、私自身も競泳をやめたものだから、時には走っていたが、毎日のようにマナブの部活が終わるまで待っているはずもなく、帰宅する。前述のキラは家が近所だったこともあり、一緒に帰っていた。そして、キラ家に上がり込み、彼の趣味である洋楽を聴く。たまには、近くの喫茶店に行き、マナー違反だが店の女主人の厚意でスモールコーヒーだけを頼み、漫画を読む、といった自堕落な青春が幕を開ける。喫茶店では有線がかかっており、積極的に聴くこともなかったアイドルの歌や歌謡曲なども耳にする機会が増えた。そして、17歳だからこそ、歳下のアイドルが徐々に世の中に出てくるようにもなり、アイドル歌手が「憧れのお姉さん」から「同年代のカワイイ子」へと変化してくる。中1の頃から薬師丸ひろ子、中3で伊藤麻衣子、高1で岡田有希子が気になったが、薬師丸ひろ子以上に好きになったアイドルはいなかった。
1987年、大学に入学して同じアパートの106号室に福山出身の同期がいた。彼は高校時代からコンポを持っており、アイドルのCDを既にたくさん持っていた。私が憧れのコンポを買うまでは、CDを買っては彼の部屋でカセットに録音させてもらうという生活だった。彼の部屋ではしばしば麻雀やファミコンをして集い、遊んだ。BGMは、おニャン子クラブ、そこから派生したたくさんのユニット、中森明菜、中山美穂、松田聖子…。まるで、あの頃の喫茶店のようだった。次から次にかかる曲は、大抵喫茶店で聴いたことのある曲だ。なるほど、それもそうだ。彼のかけていたCDは基本的にベストアルバムだったからだ。有線なら当時のヒット曲が必ず流れて来るわけだからそりゃ知っとるわな、てなもんだ。
さて、高校2年の秋。我が家に衝撃が走る。父の新しい勤務先が決まったのだ。父は熊大を卒業した後、熊本県の泗水東中に勤務していたのたが、高校生を教えてみたいともう一回教員採用試験を受け直し、新たに山鹿高校の教員となる。そこで3年間勤めた後に清水文雄先生に誘われて広大附属小へ転勤した。だが、教材研究をしたいという思いと、1979年に階段から落ちて腰を痛めて小学生相手に全力で遊べないという2つの理由から大学への転身を考え、高知に異動したのだが、そこは女子大で思うような研究もできないからと、さっさと次の職場を探していたのだった。
1986年、徳島大学の教育学部が鳴門教育大学へと変わり、新しい大学が開校されるタイミングでの異動が決まったという。
んっ?
中2を迎える双子の弟たちはさておき、私は高校3年やぞ。受験生を残して家族で移動するのか?そもそも、高知の家は高知女子大の社宅というか宿舎だったから父の単身赴任という選択肢自体が存在しない。だからといって私を転校させるのも現実的ではないので、結局、父は鳴門教育大学への異動を1年後らせた。そのことで、教授ではなく助教授からの勤務となり給与面でかなり辛かった…と後年母がこぼしていた…。
残すところ1年と決まった我が家では最後の高知の四季を堪能しつつ、行きたかったところへトコトン行くことになる。私以外の家族が年末年始を利用して足摺岬へ旅行したのはいつか書いたが、私も行ってみたいところ、そして、親しい付き合いをしておきたい人もいた。高知市内の学校の友人や競泳の先輩とは日常的に会えていたし、時には泊まりにも行っていたのだが、競泳で親しくなった仲間のうち、中村高校の連中、特に親しかったヒサトとは大会会場で会って話すくらいだった。そもそも中3の頃に親しくなってから、彼が中村から学芸を進学先と考えていると聞いていたので、高校になれば、ちょくちょく会えるな、と思っていたのだが、彼は学芸への受験に失敗してしまう…。地元の中村高校に進学したため、なかなか親しくなるキッカケも遠ざかっていたのだ。
そこで、彼に連絡を取り、高校2年の冬休みが始まるタイミングで中村に行き、今思うと図々しいのだが、家に泊めてもらえるようにお願いをしたのだ。
特急南風に乗り、中村へ着くとヒサトの家の方が車で迎えに来てくれた。ヒサトの家に着き、同じく同期のタガが来る。タガは1年半後、中大の文学部で同級生となるのだが、この頃はまだ知る由もない。しかも、タガは水泳をやめてハンドボール部に変わっていたので、多分、最後になるだろうとも思っていた。3人揃ったところで話のネタはアッサリ尽きる。そりゃそうだ。趣味が合うとかそんな理由ではなく、ただせっかく知り合ったのだが会っておきたいという曖昧な理由で集まっただけなのだ。すると、ヒサトが、中村の商店街(アーケード)を案内してくれるという。ブラブラ歩いていると外れに映画館がある。当時のお約束で二本立て。しかも、学割で1000円ポッキリ。3人で入った。格好の時間潰しだ。なんせ4時間もある。しかも、好きな薬師丸ひろ子の主演映画だ。ところが、正直言ってあまり印象に残っていない。むしろ、同時上映の映画の方が印象的だった。薬師丸ひろ子への興味が薄れかけていたのだろうか、それとも映画が今一つだったのかはわからないが、あまり覚えてもいない。
その晩はヒサトの家族と食事をして、ヒサトとたわいもない話をして過ごした。翌朝、また、南風に乗って帰った。中村駅でいかだようかんと泰作さんというお菓子をお土産に買っていただき、朝倉に戻った。
1987年、106号室で麻雀をしていると、ふと、あの日の映画、それも薬師丸ひろ子ではない方の映画の主題歌が、流れた。
んっ?
あっ、あれか…。
中村の商店街の想い出は、彼女の亡くなった日、久々に蘇ったのだった。
「BE-BOP-HIGHSCHOOL」 中山美穂