虚弱児だった息子を何とか強くしようとして父は私をスイミングクラブに通わせた。小1のこと。しかも、体育教師だった父の血を殆ど受け継いでおらず、全くの運動音痴だった母の血を受け継いだ私は運動神経が0どころかマイナスからのスタート。小学校1年でバタ足ができずに、今でも打てない。よくもまあスイミングのコーチを8年もやったものだ…。


バタ足を打つ持久力がなく、ごまかすために挟んでいた煽り足が、まさか自分の武器となり、ブレストの選手になろうとは思うはずもない。だが、クロールが遅いことで、スイミングのクラスがなかなか上にならず、スイミングのコーチが「シュンは可愛そうだからやめさせようか」という話をしていたと聞いたのは選手になってから。笑い話になったからのカミングアウト。小学5年が1年や2年と同じクラスでバチャバチャ泳いでいるのは惨めだったろう。


そんな私を見いだしてくれたのはヒロスイの河野先生。

「あんた、ブレじゃったら、いけるじゃろ」


その言葉がコンプレックス少年の心をどれだけ助けてくれたか。河野先生もブレでオリンピック候補まで行った女傑。あてがないわけではなかった。実際、私はブレだけは人並みだったのだから。人並みよりちょいと上だったかも知れない。そんな河野先生の戦友でもあった村田先生に伸ばしてもらい、少しだけ戦えるくらいにまで伸びたのは中1の頃。残念ながら届かなかったが、JOの標準記録に0・2秒まで迫ったところで高知への転居。そして、身体の伸び盛りに比例してその後はJOの標準記録は軽く切れた。翌春はJOでも決勝に残り、なんとなくだが競泳である程度は実績も残せるんちゃうか、と思っていた。だが、中2から中3にかけての怠慢と非行が尾を引いて中3の全中は残念ながら12位に終わる。補欠2位が11位だから、決勝の補欠にさえ入れず、競泳をやめると父に約束させられる。


だが、高校に入学して、自分がインターハイでは決勝に残れる器ではないことを自覚していたので、せめて国体少年Bでの決勝を目指していた高校1年の春。いや、こっそり3位の表彰台を狙っていた。それこそ、あの全国の舞台でもう一度だけ決勝に残りたい…。


そんな時、あの歌がFMで流れていた。常に録っている番組だったので、何度も聴く。あの歌手も再び戦うのだな…と思い、燃料にした。燃えたかった。


ふつふつと滾る心を後押ししてくれた曲。


「もう一度」 竹内まりや