ピープルエイジで狭山を破り多摩が初優勝した1990年10月。コーチである私のみならず選手たち、しかも、皆小学生なのにバーンアウトしてしまったかのごとき状態に陥ってしまう。これはいかん、巻き込んでしまった…と気がついたのは、11月。大会のエントリーは大体1ヶ月前だから、もう12月の後楽園招待まではエントリーが終わっていた。当時、私のクラスのエース格は小6の女の子。バックがスタイル1だったが、200フリーでもJOの標準記録が切れそうだったので私が欲張った。出られる大会をスケジュールに詰め込んで、どこにピークを持ってゆくのかさえ混乱してしまう状況を自ら作り上げてしまった。そこで、一旦リセットし、年明けでいいやとゼロからの立て直しを図る。よって、11月、12月の既にエントリーして大会、本来なら棄権がベストだったのだが、エントリー代をもらっている以上は申し訳ないので、大会会場にての「練習」と位置付ける。そのように「ごまかし」ながら年末年始を迎える。


10月21日、ピープル立川でのC級大会から毎週続いた大会参加。最後が12月16日の後楽園招待。そこからちょうど1ヶ月後の新年フェスティバルまでの期間は順調だった。かかり気味だった自分自身を客観視できたことで、ようやくブレーキが効いたのだろう。ピープルエージ優勝までは禁酒していたが、それも解禁した。そして、後楽園招待の翌日、多摩センター駅前のビルの上、居酒屋へ久々に行く。エレベーターを降りて、左側の板間の座敷。この席は有線の音楽が真上から降ってくるのだ。そういえば、2年前くらいは、ほぼ毎日、1000円セットをいただいていたもんだな、などと思いながら席につく。ヨシダと行ったような覚えがある。すると、有線からかわいらしい女の子の歌が聴こえてきた。独り言ともなく呟いた。

「へぇ、初めて聴いたよ」

「えっ、毎日かかってますよ、ピープルでも」

そう言われて驚いた。私は職場でもかかっている有線にさえ気づかない毎日を送っていたのか…。そりゃ、あかんわ。一歩どころか、二歩、三歩退かねば、と思い直した。


自分は何もかも見えてなかったのだ、ということを思い知らされた曲。歌詞も歌手も関係ないのに。あの日のアセロラチューハイとともに酸っぱい想い出だ。


「ジプシー」 児島未散