唐木田の開発が始まった頃、とんと学校に通わなくなった。若気の至りここに極まれり…といった感じだろうか。選手育成を担当したのは前年の88年末、そして、選手コースを担当させてもらうことになったのが89年春だった。あの頃のピープル多摩は異常な環境だったかも知れない。選手コース3つを全てアルバイトが担当していた。狭い視野しか持たない、中でも一番若かった私は、選手の育成だけが人生なのだと勘違いをしていた。JO選手も出せてないのに、自分が出ていたものだから楽観していたこともあり、1~2年経てばJO選手は複数出せるし、ジャパンにも送り出せる気がしていた。ところが、89年夏のJOには1人も選手を送り出せない。そして、翌年の春に向けては、年齢の綾もあり、最初から標準記録に達するはずもなさそうだったことで、初めて焦りを覚える。そもそも、Bグループにディスタンスに近いトレーニングを課し、200や400にエントリーするコーチなど、ただの虐待者だ…。大会記録というエサで選手にモチベーションを与えるなどと訳のわからないことをしているとスプリント能力の発達を妨げてしまっているな、と気づくのはもうちょっと後。悶々としたまま大学の講義などた頭に全く入るはずもなく、ひたすら、よくわからん文献などを見ながらメニューを何度も何度も書いていた。部屋で。引きこもりだ。テレビをつけていると集中力が欠如してしまうので、音楽だけを垂れ流す…のに、毎回、その曲になると胸刺されてしまい、手が止まった。


ふと、手が止まったことをきっかけに、部屋を出て、尾根幹線の工事中だった土手に上がる。谷底をぼんやり眺めながらタバコを吸う。晴れの日も雨の日も。暑い日も、そして、めちゃくちゃ寒い日も。早めに雪が降った日、木曜日だったので、公休日。珍しく土手を散歩する。少し歩いただけで立ち入り禁止の柵にぶち当たる。毎日毎日、何をしとんじゃ…。そう思いながらも土手に上がる。向こう側には大妻女子大学があった。んっ?今思うと変質者やんけ…


そんな、21歳の冬。


「エヴリデイ」 JITTERIN'JINN