前年の国体で競泳選手をやめる約束を父親に約束させられる。そもそも私立に通わせてやったのは水泳をやめて勉強に専念させるためだという父の論理はわからんでもなかったが、せっかくインターハイや国体に出てるんだから、もう一年やらせてくれてもええやんけ、と思っていた。が、親が誰よりも怖かったし、親が絶対である封建的な、典型的昭和熊本家庭に育った私は個人種目で全国大会を目指すことだけはやめると約束した。


夏が来る前に、少しだけ負のパワーが内部で頭をもたげてくる。復讐したい。


負のパワーはタイムの向上に役立った。今なら時代錯誤と言われるだろう。今の時代ならば、ポジティブシンキングで前向きな「ご褒美」だとか、「褒め称え」などを本人も指導者も使いつつモチベーションを上げるのだろうか。私には無理だった。そこで、好きな子にフラれることで県の記録を更新したり、全国大会出場を決めたり。まあ、結果オーライだが、その過程に付き合わされる周りの人々はたまったもんじゃない。今ならそう思う。ネガティブな感情は、突破するための唯一の道が「正義」に見えてしまう。自分の意志に盲従する訳だから、視野の狭さといったらとてつもなく小さく、葦の髄から天井を覗く…の葦よりも細いくらいだった。ヒロイズムに囚われた私の心の中では常に暗い曲が劇中歌として流れている。暗い曲でも、アップテンポな曲もあればバラード調の曲もあり、後者は水泳の練習や大会に向かない。前年の国体では、石川セリさんのバラード調の曲を歌いながらだったからか不完全燃焼だった。


ところで、復讐?


今なら「ちっちゃいこと言うなよ」くらいのネタだが、高知時代に許せないことが2つあった。1つは個人が絡むので出せぬが、もう一点は「学園」に対する恨みだ。断っておくと、学園に所属していた先輩、後輩は親しくしていた。1つ上のセントウさんには学生時代、毎回高知に帰る度に泊めていただいていたくらいだ。学園という呼び名は、幼稚園から短大まで揃っている私立の学校なので、通称「学園」なのである。私たちが水泳をしていた頃、学園は全盛期。高知県内では絶対的な強さを誇っていた。たとえば400フリーリレー(今なら4×100とかいう言い方なのか?)では県の総体(高知では県体と呼んでいた)で17年間負けなしだった。つまり、私たちが生まれた年から一回も負けていないということ。


私は中学生の頃、少しだけ素行が悪かった。よって、勉強ができるとは水泳関係者には思われていなかったようだ。中2から高知に突然やってきた転校生でもあったので、知るほどの期間もなかったのかもしれない。だが、ブレストで県内の中学の大会では負けなかったし、四国でも負けなかった。そこで、学園は当然のように勧誘してくる。というか、「来て当たり前」のような態度で接してきた。それがいやで、私も「私立には行きません」と公立高校の名前を出していた…のに、他の私立に入ったものだから顧問の先生から不評を買った。いや、単に生意気だったからだと今ならわかる。


高校1年の総体、学園は恐ろしい戦績をあげる。

100、200、400、1500自由形(50自由形はその当時はなかった)、100、200バタフライ、背泳、200、400個人メドレー、400、800フリーリレー、400メドレーリレー。これら全種目を学園が制覇する。ところが。100、200ブレストだけは私が勝った。そう、私が学園にいれば全種目制覇というとんでもない歴史を作っていたはずなのだ。それから、陰に陽に仕打ちを受けた。


そこで、高2でやめたことにして、高3のフリーリレーで学園を打ち破ろうとしたのだ。少しだけ学園の層が薄くなりそうだったし、油断させとけば勝てる気がした。


個人種目には出ないが、フリーの練習だけを極秘(他校に知られぬように)で続けた。燃えたぎる復讐心には日本語が似合わない。わけはわからずとも英語の歌詞とマイナーなメロディ、それにアップテンポの曲が、いい。この曲をずっとリフレインさせながら泳いだ。


そして、私たちは17年ぶりにフリーリレーを制した。0.05秒差の勝利だった。


久々にあの曲を聴いてみた。やはり、滾るような感情がこみ上げてきた。彼女のシャウトは英語の歌詞がよく似合う。



「Other  Side  of  The  Night 」 アン・ルイス