「最近の若いモンは…」などという陳腐な言葉を吐きたくもない中高年。だが、自分が遅れを取っていることを自覚しつつ、素直に認められない歪んだプライドが世代間ギャップを楯にして逃れようとする言説なのかもしれない。そもそも、最近の若い子じゃないのだから素直に教えを請えばいいだけの話だ。それを通過した優越感に似た頭からの態度を取りたくなって、つい、「最近の…」と、ほざいてしまうのだろう。

ところで、最近の小学生を知らない。娘は三十路を超え、息子は28歳になり、甥っ子も一番下が大学に進学した。孫はまだ2歳だし、小学生がおらん。訊く人もおらん。最近の小学生は何を話してあるのだろうか、何を考えているのだろうか、悶々とし、自らの小学6年の頃を思い浮かべる。

牛田小から早稲田小へ分かれて、たった1年だけの期間だったが、濃かった。今年、恩師にお目にかかれそうなので、その歳に訊ねたいことが今さらながら、たくさんある。勝手な推測だが、分かれて早稲田に移った連中の理解力が予想よりも早かったのだろうか。というのも、授業を潰して裏山に探検しに行ったり、班ごとの出し物を発表する会などが頻繁に行われていたからだ。単に新設校だったからなのかもしれないし、とにかく、確かめたい。


その、まるでお遊戯会のごとき発表会で、私たちは劇をした。文才極まるサイトウが当時流行っていた雅夢の「愛はかげろう」をモチーフ(とまでは言わないが)にして、ラストシーンにサビが流れると効果的なのでは、という寸劇の脚本を作成した。本当に秀逸な内容だった。このリスペクトすべき友人の真似をしたくてしかたなかった私は、もう一曲探してみる。哀愁漂う…いわば小学生には似つかわしくない曲はあった。余韻をしっとりとさせるもの。そして、泣けそうなもの。私も何とか脚本を仕上げ、2つの作品で同級生たちを泣かせるべくサイトウ、ハナ、ダイシと4人で練習を重ねる。登場人物を3人にして、1人が裏方。ラジカセから曲を流すタイミングをはかったり、強盗犯が使うピストル(これは、私が通うスイミングクラブから、火薬を挟んでスタートの合図にしていたものを借りてきた)に、火薬を挟んだり。私たち4人は、泣ける劇を期待し予想していた。


本番、サイトウの寸劇「かげろう」は、感動の涙どころか教室が、いや、校舎が爆発するかというくらいの大爆笑だった。重ねて言う。私たちはあくまでも感動と切なさで涙を誘いたかったシリアスな脚本を作ったつもりで、一切ボケていない。隣のクラスの担任や下の階から他学年の教師たちも覗きに来たくらいだ。大爆笑に気を良くしながらも、何かが違う。



そして、2本目「幸福」を開始。これも皆が腹を抱える笑いの渦。気を良く…したのだが、調子外れだったことを覚えている。しかし、この会、その後2回行われ、この「劇団」にはオカポンとオオハラの2人が増え、脚本もグダグダになっていった。


思い返してみれば小学生がシリアス劇を小学生相手に披露したとて起こるのは笑いだけだろうが。


私が選んだあの曲を聴くと、少し苦い胃液がこみ上げてくる。楽しかったけどね。


「それぞれの秋」 アリス