津波を体験した人の話の記録です。
漁師の叔父(50代)に、津波の話を聞きました。
叔父は大地震の直後に、生活のために船を守ろうと、
津波がくる前に息子(二十歳)と船で沖に出たそうです。
家族も心配だけど、この先生きていくためには、けして安くはない船も守らなくてはならない
聞いた話をそのまま書きました。
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尋常ではない大地震のあと、
船を守るべく、いつも船を着けている漁港から沖に船を走らせる。
どんどん引いていく強い潮の流れで、船がまっすぐ走らなかった。
15分ほど走り、
崎から900メートルくらいの場所に船を停泊。
付近には同じように避難させてきた40~50曹の漁師仲間の船がいたそうです。
間もなくして海中から、
水しぶきの白い泡がたくさん湧いてきた。
その白い泡がどんどんどんどん増えて、20メートルくらいの高さになった。
まるで、ビールをジョッキのグラスに注ぐ時にできる泡そのものに見えたそう。
白い泡は、そのまま陸の方へ向かって行った。
今思うと、それが津波だったと。
叔父は白い泡が発生した場所より沖側にいたそうで、
船は全く揺れずベダ凪(風がない)だったそうです。津波が海上に現れた場所は、海底が遠浅になる場所だったのか?!
津波のパワーが衰えなければ、浅い場所は必然的に津波が高くなっていくようなので
夜8時を過ぎると、気仙沼方向の空は火事で真っ赤だった。
携帯は全く繋がらず、船上で一晩中ラジオで悲惨な被害情報を聞くしかなかった。
深夜2時頃、船のレーダーに島がたくさんできている。
流れてきた山ほどのガレキが固まって、レーダーが反応していたためだった。
夜が明けて、2日目。
ハッキリ見えてくるガレキ。
洗濯機、車、木材、家の屋根、ドア、鉄屑・・・
人らしきものも見えたが、ガレキに近づけないためどうする事もできなかった。
3月の冷たい海に入るのはこちらの身も危険。
こりゃ尋常ではないと思う中、ガレキの量が凄すぎて、鋭利な木材や鉄屑が船を傷つける恐れがあるため船が走れない。
陸方向へ行けない。
家族はどうしてるか心配がつのるが、仕方なくもう一晩沖に泊まる。
3日目。
ガレキのすき間5、6メートルの所を船でかきわけて走行し、陸に近づいたが、ガレキが凄すぎてまた沖に戻った。
津波後はじめて弟と携帯がつながり、
家族は皆無事だと知り、ひとまず安心する。
志津川湾で自衛隊の船におにぎりの炊き出しなどをもらい、更に2日ほど沖で過ごした。
大津波のあとガレキが潮に流れて、沖に流れたり陸に戻ったりして、
ガレキが何日間も浮遊し続けていた。
海上で4日間、夜を過ごした事になる。
叔父の大きい船では陸に向かえないため、船に碇を降ろしてガレキだらけの海上に停泊。
近くのガレキの中に浮遊してた小さい船に乗り換えて、材木をオールにして漕ぎ、いつもの漁港の岸壁に到着。
そこには、想像を絶する光景。。
住居のある地区の全く手づかずなガレキの中を、道なき道を歩き、
山道を抜けて家族のいる避難所にたどり着く。
しかし海のガレキの量がハンパなくて、停泊してきた船に傷がつく心配があり、船を守るため数日してまた沖に出たそう。
生きていくためには、生活の基盤である漁ができなければならない。
叔父「陸に残ったガレキなんていささかだぁー」
と繰り返していた。
太平洋に散っていった膨大な量のガレキ。
木材は海に流れると、海の虫が木材を食べて砕くそう。
家電や車、鉄クズは、鮭やワカメの養殖の網に絡むため、
それらを切って陸に上げる作業が本当に大変だと言っていた。
後日に漁師仲間に、流れてきたガレキの中から、
「助けて下さい!!」
と叫んでる人がいたと聞いたとのこと。
漁師仲間は
「ごめんなさい!」
と言うしかなかった。
その声が忘れられないと。
・・・おじの話を聞いていて、
311の事を思い出させて申し訳ない気持ちになりました。
おじは守った船で、間もなく鮭網漁を開始するようです。