悟りとは仏教からきている言葉だそうです。
一般的な用語としては、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを意味するようですが、人が「悟った」という場合には仏教的な意味合いで使うことが多いように思います。
要するに何かの真理を知るということです。
仏教的には、無願と言って、悟ろうとしなくなることを意味する場合があるようです。
要するに悟らないと決意することです。
悟らないことを決意すれば煩悩に戻るので、煩悩を受け入れることを決意すると言う意味になるようです。
また、「山は山、河は河になる。」とも表現されるそうです。
当たり前のことを、そのまま受け止めて楽しむという風情だそうです。
一般的な意味であれば大袈裟な言葉ではないのですが、仏教的に考えると少し難しい話になります。
本当に人は悟れるのだろうかと思われますが、個人的には無願というのは地上での生きかたのヒントにはなると思っています。
悟りのやっかいなところは、自分でそのような境地を目指して日々努力することには問題がないのですが、そこに他者との比較や他者へのアピールが入ってくることです。
普通の人は悟っていないが自分は悟りを開いた特別な存在であるとか、私は悟りを開いた偉い人だから周りの人間はそのように扱いなさいということを周知させようとするところに、問題があるのです。
もちろん、そうなれば、終わりです。
霊的修行者であれば恐ろしいことになります。
さて、このブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング
を実践して頂き、水波霊魂学 早わかり
、わかりやすい霊魂学
、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」)
、霊をさぐる
、弁慶と弟子
、ねこメット動画
(修行仲間の方々が作られた動画が全て見れます)などをご覧になって頂ければと存じます。
個人差があるとは思いますが、神伝の法を実践し続ければ、いろいろなことが実感されます。
それは、世で言うオカルト的なことではないですし、仏教で言う悟りでもありません。
人は霊的生命体なので、元々どこかで何かを感じているはずなのです。
それは霊的真実へとつながるものである場合もあるでしょう。
しかし、肉の脳はそれが分かりません。
一瞬思ったとしても否定してしまいます。
自分自身のことを全く分かっていない肉の脳が悟ったところで、何がどうということはありません。
高慢につながって破滅するだけです。
ところが、神伝の法は何かを実感させます。
悟りを開くことは出来ませんが、霊的な真実への道が開かれることはあるかも知れません。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
霊魂学をより多くの方々に知って頂くために、是非一日一回のクリックでのご協力をお願い致します。
にほんブログ村
yahoo
google