昨日は最後に、ちょっと前のいい感じに戻さなきゃと書きましたが、もっと突っ込んだ話をすれば、それが良いことかは分かりません。
入門編の方にはとても分かりにくいことを書いていますが、実際にそうなのです。
つまり、日々の生活のことで修行の最中にいろいろ考えてしまって集中出来ないということは恐らく良いことではないでしょう。
しかし、その前の自分ではちょっといい感じだと思っていた感覚が良いとは限りません。
それは分からないのです。
特に注意しなければならないのは、そのいい感じを自分がとてもその霊的トレーニングが上手く出来る様になって、飛躍的に霊的な進歩を遂げたんだと思ってしまうことです。
これは、もう高慢の始まりですからかなりまずいです。
純粋に何か感覚が変ったなあ、ちょっと良い状態になってきたのかなあ、と思うことはどなたでもあることでしょうが、そこから更に考えが進んでしまうと危ないのだと僕は思っています。
霊的なことは、自分では分かりませんし、まして師以外の方では100%分からないのです。
そう考えれば、自惚れたり高慢になったりする要素は少ないはずなのですが、どうもそう上手くいかないところが、地上の人間として生きる難しさなのでしょう。
さて、今日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、水波霊魂学 早わかり 、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊をさぐる 、弁慶と弟子 、体験ー死後の世界 などをご覧になって頂ければと存じます。
逆に、日々の生活のことで、突然大きな問題が解決してしまったり、良い流れになっていろいろなことが上手くいくようになった時に、守護霊や指導霊が助けて下さったのかなという思いがふと頭をよぎることがあります。
僕の場合は、ここ数年はそのようなことを思ったことがありませんが、以前にはそんな風に考えてしまったこともあります。
実際にはどうなのかというとこれも全く分かりません。
そのような状況が霊的に良いか悪いか関係ないかは本当に分からないのです。
地上での生活が上手く行くことが必ずしも霊的に良いことではありませんが、それが必ず悪いことだとも言えないのです。
個々の事情やその時に状況によって、全く反対の結論が出るでしょう。
こんなことを書くとどうすれば良いかわからなくなってしまうかも知れませんが、結局は、自分の頭で考え、良いと思うことを実行してみて、試行錯誤を繰り返して、より良い方へと自らの力で進んでいくしかないのです。
それだけでは、チェックが出来ませんので、時折必要に応じて霊査を受ければ良いのです。
霊査に頼ってしまうと、それが出来なくなった時にとんでもない方向へ進んでしまうことになりかねません。
霊査の内容には極めて高い価値があると思いますが、それに依存してしまっては、自らの手で霊査の価値を下げてしまうことになってしまうのです。
最善を尽くす。
実行するのは難しいですが、結局その一言に尽きるということになってしまいます。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
霊魂学をより多くの方々に知って頂くために、是非一日一回のクリックでのご協力をお願い致します。
↓