世俗的とは、「世間一般に見られるさま。俗っぽいさま。」のことを言いますが、世俗的な生活、世俗的な人間という表現に鑑みると、あまり良い意味には使われていないようです。
これほど宗教に対する嫌悪感が強い日本においても、宗教的ではない人間を指す言葉、すなわち世俗的な人間というものが良い意味で使われていないことは非常に奇妙な感じがします。
恐らく、大きな伝統的な宗教において出家するということが、世俗のどろどろしたものを全て捨てて清く生きることであるというイメージがあるからでしょう。
地上に渦巻く欲望から解き放たれて、悟りの境地に至ることが良しとされているのです。
そして、世の中の全ての人々の幸せを願いながら、修行をしたり、写経をしたりして、規則正しい生活を送っていると徳の高い素晴らしい人と言うことになります。
それは地上の価値観において評価されるのでしょうが、本当の意味で宗教的に生きるということではありません。
一般的には世俗的な生活と対極にあるものなのでしょうが、単に普通の生活の苦しさやどろどろしたものからある程度離れて生活することが出来るご身分だということに他ならないのです。
本当の意味で宗教的に生きるということは、霊的な進歩向上を目指して日々努力するということなのです。
さて、今日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、水波霊魂学 早わかり 、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊をさぐる 、弁慶と弟子 、体験ー死後の世界 などをご覧になって頂ければと存じます。
いつも同じ事を書いているのですが、どうやら世間は、人間の本質に根ざしたもの(欲望とか生存競争とか自己保存)から目を逸らして、それとは無関係に生きることが宗教的な生き方であり、それが伝統的な権威ある宗教に基づいたものであれば、素晴らしいと評価するようです。
しかし、人は地上で肉を着て生活する以上、常に生存競争をしていますし、自己保存の塊ですし、さまざまな欲望を完全に抑えることなど出来ません。
従って、それらを極力拒否することによって、崇高な世界観の中で生きていても、何一つ本当の意味での宗教的になることは出来ないのです。
知性と教養にあふれ、崇高な理想を掲げ、ありがたい話をしていても、残念ながら今の世の中であれば、幽体はぼろぼろ、幽気は汚く、間気はもれているというようなことが普通なのです。
もちろん、数十年後にあの世に行く時には、期待していた極楽やら天国やらに行くことは出来ません。
そこには、そのような世間で最高だとされるような方であっても、物質界の法則によって、病気になったり、怪我をしたりして、最終的には亡くなるということが事実であるのと同様に、幽質界にも法則があり、その法則を知って対策を講じていなければ、法則通りの結果が生じると言う非常にシンプルな現実があるのです。
地上の状況が毎日悪化し続けているようですので、とにかく霊的トレーニングとトオゥ・ライ・シェイで自分で自分自身を守り、日々反省しながら自分の頭で考えて行動する方が一人でも多く増えることを願っています。
何かを感じているあなたには是非勇気ある一歩を踏み出してもらいたいのです。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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