有名な中国のことわざですが、ネットで検索したことわざ百科によると、本来の意味と実際に使われている意味では微妙に違いがあるようです。
『災い転じて福となす』(わざわいてんじてふくとなす)とは、不幸な出来事があっても、機転をきかせてそれにめげずに幸せを掴む事というような意味のことわざである。辛いことをひっくり返すくらいの勢いで乗り越え、幸せを掴み取れということである。不幸の後には幸せがあるという意味に捉えられがちだが、それとは異なる。また、自分の力ではなく偶然良い方向に移ったことに対しても使われることがあるが、ほとんどの場合、身に振りかかった災いをうまく活用して幸福に変えることを指す。
以上のような説明がされていますが、地上の価値感における不幸な出来事によって霊的に目覚めて、自らの自由意思によって霊的進歩向上を目指すと言うのであれば、まさにこのことわざがあてはまると言えるでしょう。
真の幸せは、向こうからやってくるわけではありませんし、偶然手に入れるというものではないからです。
誰に強制されること無く、自らの努力によって得るものだからです。
そして、それはまさしく己との戦いだと言えます。
いかに地上という仮想現実のような世界で、肉を維持しつつも肉に振り回されないようにしなればならないからです。
霊的な上の世界は、霊的レベルによって住む世界が違うので、各々の差が客観化されていますが、物質界は実は自分自身がどう感じるかという主観がメインのなっていますので、他人を差別して満足感を得たり、他人を羨ましがったり妬んだりしながら生きてしまいます。
だから、あくまでも幸せは主観化されてしまい、どのような状況になっても決して満足することが出来ないのです。
もちろん、相手チームに敵対する念が良くないのですが、ひいきのチームに対する年もさまざまな現象を起こすことがあるようです。
僕もスポーツ観戦をすることはありますので、一概に否定するわけではありませんが、霊的にはそのような状況になっているということは知っておいた良いかも知れません。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊を知るために 、弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。
人は何々がああなったらいいなあと夢見ますが、うまくその通りになっても、必ず不満が出てきます。
そして全てにおいて満足するという状況にはまずなりません。
逆に不幸な出来事も主観によっていくらでも不幸さが緩和されるのです。
客観的な不幸というものも実は地上にはないからです。
僕が霊的修行者としての道を歩んで来て、ふと思うことは、地上での不幸とされている状況になっても、だんだんその不幸が緩和されているなあということです。
この感覚は個人差があるでしょうし、あくまでも個人的考えなのですが、肉の脳が知らなくても、自分の何かが実は真の幸福や不幸が客観的なことを知っていて、肉の脳がそれに反応して大騒ぎをしても、冷静に対応出来るようになってきているようなのです。
まあ、はっきり申し上げて半世紀近い僕の人生では余りにもいろいろなことが起こって、波乱万丈とかジェットコースターだとか言われましたが、死後、災い転じて福となすと言えるのかも知れません。
しかし、個人的なことがどうこうとは考えていませんので、きちんとやるべきことをやって結果を出せたのかという部分が最も重要となるでしょう。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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