死ぬのは怖い | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

20代の頃、死後の世界は間違いなくあると確信した僕は、ある霊能力者にこう言いました。

「僕は、死後の世界があることを確信しました。だから、死ぬのは怖くありません。」

彼はこう言いました。

「誰でも、死ぬとなれば怖いはず。そんなことはない。」

何か変な確信を持ったことで、思い上がっていたのでしょう。

僕はその言葉を素直に受け取ることが出来ませんでした。


しかし、今はそんなことは言えません。

もちろん、やるべきことをやり遂げて死ねるのであれば、これほど嬉しいことはないのですが、それはそれとして死に対する恐怖は別の話です。

例えば、寝ていて、知らないうちにぽっくりと死ねたというのであれば、何も怖くはありません。

しかし、霊的修行者だと言ってみても、所詮肉の身を着ているただの人間です。

肉の脳は本能的に死に対する大変な恐怖を持っています。

特に、苦しみながら、あるいは痛みを感じながら、じわじわと死んでいくと思うと身の毛がよだちます。

また、死との隣り合わせのギリギリの生活を長々と味わって、最後に絶望しながら死んでいくと思うと、気が狂いそうになります。

肉を着ていれば、どんなに偉そうなことを言ってもやはり死は怖いのです。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊を知るために 霊魂イエス ムーの大神人 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


偉いお坊さんや大聖人や偉大なる教祖様は、死など恐れないと仰います。

僕はそこに虚像を感じるのです。

そんな人達こそ、目の前に津波が迫ったら、腰を抜かして、命だけは助けて下さいと神やら仏やらに生まれて初めて本気で祈るのです。

地上の人間はどこまでいっても人間です。

例え、本物の霊的達人になったとしても、万が一神人になったとしても、人間であることには何ら変わりはありません。

地上にいながらこのことを見失ったら、恐らくその修行者は修行に負けるでしょう。

そして、実際、余りにも多くの方がそれによって敗れていっています。

せっかく、霊的修行者となりながら、契山館を去った人達は今、この状況の中でいったい何を思うのでしょう。


地上で生きるということは、肉の影響をありとあらゆる場面で受けますし、霊的に目覚めたとしても、時には優先順位を間違えてしまいます。

落第寸前までいった僕にはそれが痛いほど分かります。

高貴な存在が生まれ変わってもその穴に落ちてしまうのですから、霊的修行者というのは本当にギリギリの判断を常に迫られているのです。

しかし、今、この状況になれば、少しは考えが変わる方もおられるでしょう。

文明が、家が、家族が、仕事が、お金が、それら何もかもが一瞬で失うものであることを多くの方が実感されたと思います。

いったい何を守るために生きてきたのでしょうか。

地上に生まれ変わってやるべきことをやらなければ、結局、どんな名誉も富も表面上の幸せも人間レベルの愛も何もかもが、ただの幻であることに気がついた方もおられると思います。

復興も大事だし、精神的なケアも必要です。

生きることは当然大切なことです。

しかし、本当に大切なのは、神伝禊法と神伝鎮魂法とトオゥ・ライ・シェイです。

そして、日々、己を見直し、改善することが続ければ、必ず人は霊的に進歩向上出来ます。

それしかありません。

いや、それがなければ、生きていても何の意味がありません。


これから本格的に始まるであろう悲劇を眼にしても、まだまだ大切なことは唯物論だと仰る方はおられるでしょう。

そのような方々は、そのように自由意思を行使されれば良いでしょう。

真剣に求める者だけが救われるのですから。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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