最後の審判はあるのでしょうか。
クリスチャンの方にとってはとても重要なことだと思いますが、霊魂学の立場で申し上げれば、ないということになります。
仏教などの他の多くの宗教もそうですが、その時代時代の地上の価値感における善を強要し、悪を排除するために教え込まれるのです。
統治者が社会を安定させる方法として好んで使われてきたので、世の中に浸透してしまったようです。
ところで、キリスト教の言うところの最後の審判はありませんが、それを裁きだと取られるのであれば、大きな意味で最後の審判はあるようです。
これは、世間が考えているものとは全く違うものだと言えます。
裁きとは端的に言えば、結論を出すことです。
霊的修行者はこれを常に行なわなければならないようです。
何かを判断しなければならない時に、すぐに結論を出さなければ、状況は変わってしまいます。
遅れてしまったが故に、完全に手遅れとなることは多々あります。
判断をしないということが最悪の結果を招くというのは、何も地上の政治判断や経営判断に限ったことではないのです。
むしろ、霊的な判断をすべき時にしないということは、地上での云々とは比べものにならないほどの重大な過ちとなることもあるでしょう。
霊的な意味での究極の裁きは、神伝の法にあります。
最後の最後に霊的修行者は、神霊やその直属の部下である高級眷属や高級霊魂さえも裁かなければならなくなるのです。
想像すらつかない世界ですが、どうやらそのようです。
神の禊。剣の鎮魂。神伝禊法と神伝鎮魂法の秘伝とはそのようなものらしいのです。
霊的な裁きはすぐに結果が出ます。
霊的に上がるのか下がるのか。
極めてシンプルな世界なのです。
霊的修行者の修行はともかくとしても、そうでない方であっても、人は内に神性を秘めた霊的生命体ですから、実は日々の生活においても、霊的な裁きをしなければならないことは決して少なくないと思われます。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング
を実践して頂き、わかりやすい霊魂学
、霊を知るために
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このような霊的な環境が最終局面というほど悪い時代に、地上で生きるということは、霊的に目覚める可能性が絶望的に少ないと言うことを意味するようにも感じてしまいます。
しかし、高貴な存在はこのような時代であっても、無知は罪なりと仰います。
なぜならば、人は神性を秘めた特別な霊的生命体だからです。
あとでどのような言い訳をしようが、全ての人は、霊的に進歩向上するという目的のために、地上に生まれ変わっているのですから、必ず何回かは霊的に目覚めるチャンスに巡り会うようです。
従って、それを無視した、あるいは一度は目覚めながら最終的にはそれを捨て去った以上、地上の人に全ての責任があるということのようです。
神性を持つが故に自由意思が絶対的に認められ、その権利を行使して神性を無視し、場合によっては攻撃すらして、キリストさえも磔にする。
それが人類何千年の事実であり、全ての積み重ねの上に、今この瞬間があります。
そして、最後の切り札として、地上に神伝の法が示されました。
キリストは6名であって、6名でなく、一人であって、一人ではないようです。
2000年ほど前にイエス師が破れた後、終末を知り尽くしたキリストが地上に降りられて、再び人類の終末を救おうとされています。
だからこそ、目の前には霊的トレーニング があり、トオゥ・ライ・シェイがあります。
それでも、決して求めない人類に明るい未来などあるのでしょうか。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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