いつも、人類は、幽質界にいながら物質界で暮らすことを望み、神霊や高級霊魂の反対を押し切って、地上に降りた時から罪を背負ったと書いています。
しかし、このことは分かったような分からないような説明だとも言えます。
まして、その人類全体の罪を今地上で生きている僕たち一人一人が負っていると言われてもピンとこないでしょう。
自由に飽きてしまった霊魂が、不自由という自由を求めて、地上に降りたわけですが、その時の状況も記憶もない僕たちからすれば、迷惑な話だということになります。
労働の苦しみと出産の苦しみを与えられた人類は、予想された通り、地上に降りてから早々に救いを求めました。
そして、救いの手が差し出されたにも関わらず、それを拒否し、遂にイエス師を磔にしてしまったことは何度も書いている通りです。
要するに、自ら望み、自らの判断で、どんどん苦しくなるよう、救われなくなるよう歩み続け、馬鹿馬鹿しいとも言えるような生まれ変わりを何度も何度も繰り返してきたのが人類ですが、ではその本質的な罪とは一体なんなのでしょうか。
幽質界から物質界に降りることの罪とは、実は、人類が物質界の法則が全てと思い、物質界の価値感に完全に染まりきってしまうことでした。
すなわち、当時は今あるような地上よりも下の幽質界は存在しなかったでしょうから、上の幽質界、霊質界、神質界、そして至上の神という構成になっていたはずです。
霊魂というものは、本来的に、その存在が見えなくても聞こえなくても、自分で確認することができなくても、上位に存在する霊魂を通して、神を感じ(要するあえて言葉にすれば地上の人間には味わうことができない本当の幸福感のようなものを感じるということです。)、上へ上へと霊的な進歩向上を目指すものなのです。
それがいたって自然であり、普通なのです。
その霊魂が、本質的なものを全て忘れ、全て否定するような物質界という極めて不自由な世界で暮らすということは、霊的な真実を求めるという最も大切なことをしないということを意味します。
実はこれが罪なのです。
この罪が、現代に至る罪の積み重ねにつながっているのです。
人類は知能があるために、不自由でどうしようもない物質界の生活をより快適なものへと進歩させてきました。
それが科学なのですが、この科学こそが、最も物質的な価値感の象徴であり、唯物論であり、そしてそれが罪の積み重ねを極限状態にまで至らしたのでした。
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だからこそ人は、霊的真実を求めなければならないのです。
人は本来的に宗教的存在であり、宗教を求めるものなのです。
これほどまでに科学が発達したにも関わらず、宗教的な考えが絶滅することはありませんでした。
それは、物質界には霊魂としての真実がないからだとも言えるでしょう。
いずれ詳しく書かせて頂きますが、だからこそ唯物論で霊的なことを全面的に否定してしまうよりは、どんな宗教であれ、一応そちらの方向に気持ちが向いていれば、ましだと言えるのです。
人は自分自身が霊的生命体であることに気がつかない限り、救われることはありません。
物質界では、苦しみや悩みが最初から用意されているのです。
ご利益などの物質的な満足感を求めても、決して満たされることはなく、ずっと苦悩は続きます。
そして、物質界で霊魂が暮らし、念によってお互いの幽体をボロボロにすることによって出来てしまった下の幽質界では、地上とは比べものにならないほどの苦悩が用意されるようになってしまったのです。
人類の自由意思は罪を積み重ね、待ったなしの状態にまでしてしまいました。
最強の武器でもある自由意思は、この何千年もの間積み重ねた罪をオセロゲームのように逆転してしまう力があるというのに、誰もそれを知ろうとさえしません。
結局、人類は罪に負けてしまうのでしょうか。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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