いつも書かせて頂いていますが、神霊も高級霊魂も人間の自由意思を尊重なさいます。
戦争も凶悪犯罪も世の中からなくなりませんが、これは人間が自由意思でおこなっていることなので、なくなりようがないのです。
例えば、人を殺すことはもちろん悪いことですが、地上の善悪の価値観では、人を殺すことが善とされる場合と悪とされる場合があります。
人間が自分の都合の良いように善悪の価値観を作っているのでこのようなことになるのです。
大きな戦争で、何万人もの人を殺して、自分の国を勝利に導いた者はその国では英雄となり、大統領にまでなることがあります。
人間はその行為を善としているのです。
貧困と介護に疲れ、思わず自分の親を殺してしまっても日本では犯罪になります。
同情する人はいるかも知れませんが、日本では法律によって犯罪とされているのです。
分かりやすい二つの例を挙げましたが、人が人を殺すというのは、さまざまな要因が重なっていて、本来であれば、それをきちんと裁くことなどできないのです。
しかし、裁かないと治安が乱れ、国を治めることができないので法律の縛りによって、世の中を安定させているに過ぎないのです。
さて、前置きが長くなりましたが、霊的に考えた場合、人が人を殺すという行為には、世の中の多くの皆さんが考えているような意味はありません。
神霊や高級霊魂が自由意思に関与できるのであれば、人が人を殺すことをやめさせられるのかも知れませんが、実際には毎日、戦争や犯罪によって殺人は行なわれています。
これだけを考えても、天罰などないし、いわゆる霊能力などというもので、殺人をやめさせたり、世の中を変えたりすることができないということが簡単にご理解頂けると思います。
全て、自由意思が最優先されているからなのです。
実は、人を殺すという行為そのものには、霊的な意味はないようです。
仏教の言うところの因果応報はないということです。
しかし、殺される相手からやそのご家族や恋人、知人からの激しい憎悪の念を受けることがほとんどでしょう。
その念によって、殺人者の幽体がひどく損傷することは想像できます。
また、せっかく生まれ変わってきたのに、大きな霊的カルマを増やしてしまうということもあるでしょう。
いずれにしても、結果として、死後、上に行くという可能性は低いと言えます。
このように人間にはどのような犯罪を犯そうが、何をやっても事前にとめることはできないという意味で、自由意思が認められていると言えそうです。
もちろん、犯罪行為は国によって裁かれますが、神霊や高級霊魂が裁くわけではないのです。
例えば、今、この瞬間に、僕が隣の留守宅に泥棒に入ろうと思えば、それをすることは可能です。
成功するとか、途中で見つかって警察に捕まるとか結果はどうなるか分かりませんが、事前にそのことを誰かに明かさなければ、僕が泥棒になることを誰もとめることはできないいうことなのです。
法律は守らなければなりません。
やれてしまうということと、やっていいということは意味が全く違います。
犯罪は当然やってはいけないことです。
さて、犯罪の場合は、法律での縛りがあるので、ある程度、抑制することができます。
その意味では、自由意思にも少しばかり暗黙の制約がかけられているのです。
しかし、実際に犯罪と同じか、場合によっては、それよりもはるかに霊的にマイナスに働くようなことで、ほとんど制約がかけられていないものがあります。
それは、現代人が、神霊や高級霊魂の存在を否定し、日々の生活の中で、多くの人と関わりを持ちながら、憎悪、ねたみ、怒りなどの低い念をお互いに出し合っているということです。
結果として、ほとんどの人は、幽体がぼろぼろになり、間気がもれたり、幽気が不足したりして、邪霊のかっこうの標的にされてしまいます。
意図的に人を騙すとか陥れるとかしているわけでなくてもそうなります。
自分は何も悪いことをしていないと思っていても、理不尽な目にあえば、誰かに対して憎悪や怒りの念を発することは誰にでもあるでしょう。
そうなると、念を受けている方の幽体が傷つくだけでなく、そのような低い念を利用して何か悪さをすることが得意な邪霊の標的にされるので、
当然、念を出している方にも、邪霊などが関与してくる可能性が高まりますから、霊的に良くない状況が起きえます。
念を受ける方も出す方もどんどん霊的に落ちていくのですから、なんとも救いようがない状態になっているのです。
そのようなことは、人間である以上、昔からあったのでしょうが、戦前くらいまでは、まだ神社やお寺、あるいは霊山と言われる山などの今で言う本物のパワースポットには高い力が降りているところがあったので、そこへ行くことにより、ある程度霊的なリフレッシュができたようです。
また、科学の発達が目覚しく、唯物主義が特に強くなっている現代とは違い、昔は神や仏などの見えない存在を敬う気持ちがあったので、守護霊や指導霊の方々とある程度交流ができたという状況もありました。
いずれにしても、今ほどの殺伐とした競争はなかったので、念による影響もそれほどひどくはなかったはずです。
何度か書かせて頂いていますが、現在の人間社会で生活するということは、ただそれだけで、どんどん霊的なレベルを下げていくことを意味します。
普通に生きているといだけの自由意思の行使ですら、どんどん霊的なレベルを下げ、人生は暗いものになり、死後には悲惨な世界へと落ちていくのです。
まさに、現代人には、どんどん霊的に落ちていく自由が与えられていると言えるでしょう。
残念ながら、これが事実です。
だからこそ、自分のことは自分で守るしかないわけです。
多少の念ならば悪い影響を受けない、また損傷しても自分で治すことができるそのような幽体を持つしかないのです。
結局は、同じことを薦めるしかありません。
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そして、これは本物だと感じた方は、神伝の法、すなわち禊法や鎮魂法などの霊的トレーニング を行なって頂けばと思います。
それしか、霊的に自分で自分のことを守る方法はありません。
現実は、多くの方々思っているよりも切迫した状況になっています。
景気の回復も環境問題も重要なことだと思いますが、根本的なことが解決されない限り、いずれ法則によって何らかの現象が起きるかもしれません。
それは、もう目の前に迫っているのでしょうか。
人が救われるには、自分自身で救われるように自由意思を行使するほかありません。
そして、人類の将来は、そのような一人一人の自由意思行使の結果が全てを決めるのです。
裁かれるということはありません。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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