人が死を真剣に意識する時とはいかなる場合でしょうか。
まず、日々の生活が苦しくて苦しくて生きているのが嫌になった時に、人は死を考えるでしょう。
また、人生を謳歌している時に、突然、不治の病で余命いくばくもないと知った時も当然人は死を考えるでしょう。
このような大きな環境の変化がなくても、人はある程度年を取り、老齢と呼ばれる頃には、こんな風に死にたいとか死ぬまでにこれだけは準備しておこうとか考え始め、やはり死を考えるでしょう。
他には、親兄弟場合によっては子供など身近な血縁者や親しい友人などが亡くなると死について考えるでしょう。
しかし、それ以外の時は、人はあまり死について考えないようです。
物質界の物質には永遠のものなどなく、その最たるものの一つが肉体なのですから、人は普段から死を意識していても良いはずなのですが、あまりそのような方はおられないようです。
日々、肉体の目で物を見て、肉体の耳で音を聞いて、肉体の脳で考えることに慣れてしまっているので、それらが全て機能しなくなるいう現実を実感することができないからでしょう。
死は必ずやってきます。
法則で、肉体は滅びるように出来ているからです。
非常にはっきりした有限性、それが物質界なのです。
そうすると死後はいったい何があるのでしょうか。
完璧な無。
本当にそうでしょうか。
完璧な無などというものが存在することのほうが僕にとっては不思議です。
宗教が大嫌いな方もなぜか死後の世界はあると思っておられることがあるようです。
正月には神社にお参りに行って神様に願い事をして、お盆には渋滞の中故郷に帰ってご先祖様のお墓参りをします。
ごく一般的な日本人の姿です。
死後の世界がないのであれば、なぜご先祖様にお願い事をしたり、ご先祖様を敬ったりするのでしょうか。
洗脳、テロリズム、詐欺、人生の破滅などが連想されるようになった宗教に対する拒否反応はあっても、スピリチャル、ヒーリング、癒し、パワースポット、宇宙のエネルギーなどと巧みに言葉が変えてあるとなぜか安心してハマッていく方も多いようです。
どこかで見えない世界や力、あるいは死後の世界を信じているからでしょう。
死後の世界はあります。
人間の魂は肉体が無くなっても幽体を使って幽質界で生き続けます。
しかし、幽質界は恐ろしいほど上下の差が激しい世界です。
まさに天国のような世界もあれば生き地獄のような世界もあります。
死と真剣に向かい合うとそこには生があります。
死ぬまでどう生きるかという人生最大のテーマがそこにあることに気がつきます。
死後の世界があるとすれば、死んだ後には生きている時のまさにその生き様が大きな影響を与えると考えるのが自然でしょう。
しかし、その生き様とは善行を繰り返したり、徳を積むことではないのです。
幽体を使う幽質界の法則を知り、その法則に従って、永遠とも思えるような苦しみを味わうことのないよう、生きている時に対策を立て、実行することなのです。
それこそが霊魂学 であり 、霊的トレーニング の意味するところです。
宗教から一般的に連想されるいかがわしさが一体どこにあるでしょうか。
詳しいことは、いつものようにじっくりと時間をかけてわかりやすい霊魂学 や霊魂イエス を読んで下さいと申し上げておきます。
人は死と真剣に向かい合った時に、生の本当の意味を知りたいと思うでしょう。生と死は対極にありながら、裏表にすぎないからです。
そして、生きることの本当の意味を知りたいとあなたが真剣に思い始めたら、あなたの人生はきっとより良いものへと変わっていくに違いありません。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
※ 契山館
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