物事を見るときに必要な、色眼鏡や物差しや枠組みで

優れたもの、豊かなものをもっているのは強みである。

その強みは生まれつきもっているものだけではなく、

経験や蓄積によって糊塗されていくものだ。

本書を読めば強力で豊かな「物差し」を手に

入れられること請け合いである。まず、

読み物としてバツグンにおもしろい。

取り上げている題材がワクワクするものであり、

かつ軽妙な文体で論じられているのでスイスイ読めるのだ。

著者は武蔵大学人文学部英語英米文学科准教授。

専門はシェイクスピア、フェミニスト批評だそうだ。

本書で批評の対象となるのは古典文学からかなり

新しいディズニー映画まで、多岐にわたる英米の作品たちだ。

私も触れたことのある作品がいくつかあったが、

本書を読んだことでフェミニズム的新しい視点を

手に入れることができたと思う。ヒロインや登場人物の女性の

位置づけに着目し、フェミニズム的に問題なのはどんな点か、

逆に優れている、楽しい点はどこか、今まで考えたこともないような

着眼点を得られたと思えた。映画「ファイトクラブ」は

ネタバレだから見てから読んでと書いてあったが、

おもしろすぎて先に読んでしまった。後悔はしていない。

「女」として生きてきた自分自身のいままでの人生も

同時に振り返り、言葉にしたくなる、そんな本。

著者の波乱に満ちた人生も、淡々とした語り口と

精緻な分析を通せばそれは美しく華麗な一人の

「女」の物語として成立し、「女」である読み手の

私の心に一条の新しい色を挿した。最初のお子さんを

死産で亡くすという壮絶な体験をしたという事実は

つい最近もテレビで美しく聡明に語る彼女の姿を見た

視聴者にとって衝撃的だろう。

ボーヴォワールの『第二の性』に

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という

有名な言葉があるが、三浦瑠麗は「女になる」ことを

頭ごなしに否定するようなタイプではない。

むしろその美貌から自然な成り行きとも思うが、

進んで「女性性」を会得していった感を受けた。

「女になる」ことを非難するような目で見、

静かにそれを抑えようと目を光らせる母や祖母たち。

彼女たちに反発を覚えながらも全否定するわけでもなく、

自身の娘には全く違った仕方で

その接し方を変えていく姿勢には感服した。

これは以前noteにもupしたものなのですが、ここでも披露させてください。
民主主義などの政治的テーマや吉本隆明の思想について書かれた章は正直難しくてあまり頭に入らなかった。でも「遅いインターネット」という発想はとてもすばらしい。

自分の物語と他の事象との往復運動を試みるために批評をする。現代では気軽に発信できるため、「読む」より「書く」の方が手軽にできてしまう。書く、はもう現代人には逃れられない行為だが、読む、ことでインターネット社会での世界との関わりをもっと「遅く」することができる。遅くするというのは深い考察や検証に手間暇をかけるという意味だ。いまの「速すぎる」発信では熟考が足りていない状態だ。

 私は今後評論や古典を多く読み、読書とアウトプットの道を邁進していきたいと改めて思った。熟慮の末の発信には大きな価値があると思う。「ではない」と他者が作った既存の価値を否定ばかりしていないで、自分で問題を新たに設定し、「である」と言おう。新たな考え、価値を自ら作ろう。

 宇野常寛氏は今後も注目の評論家。彼にはその独自の身体を使って走り続けてもらおう。我々はひとまず彼に並走してもいいし、己の道を行ってもいいだろう。本書を読み始めたとき、これは一緒に走ってくれる本だと書いた。読了した今、補助輪を外されて初めて自走しているかのような清々しい気持ちになった。いや、この例えは適切でないかもしれない。なぜならこの補助輪は、これからも自走する我々の中に内蔵され続けるからだ。

今回は速読について語ろうと思います。

 私は巷間言われているような類の速読を実行するのは困難だと考えます。だから本の種類ごとに読み方を変えるべきです。

速読は講習など特別な対価を支払ってわざわざ獲得するものであって、そうでない人はしっかり読むしかないと一般的にされています。例えばどういう速読かというと、「カメラアイ」などと言い、写真を写し取るように短時間で何回もページを繰っていくというものです。一部の特殊な天才を除いて、そんな神業は不可能に近いでしょう。

 かつてある速読講座で、「ハリーポッター」を読破するという回があったそうです。見事短時間で記録を叩き出した参加者は感想を聞かれて、とてもユニークでドキドキするような冒険ファンタジーなどと表層だけの感想を述べたそうです。具体的な単語が何も出てこないというのは、本当に「読めた」といえるのでしょうか?まるでやっつけ仕事のようなものです。

 なるほどたしかにじっくり読んでも忘れるし、時間をたくさんかけるのは効率が悪いという面はあります。特にいちばん初めから一行一行丹念に読んでいくのは馬鹿馬鹿しいし時間がもったいないという意見は昨今浸透してきました。

 しかし、精読までいかなくても自分の頭の中で理解しつつ文章を読み進んでいかないと、覚える覚えない以前の話になってしまうのではないでしょうか。理解していない物事に関して、人は記憶することはできません。それこそカメラアイを持っているような一部の特殊な天才ならできるのかもしれませんが。

 私は、書籍ごとに読み方やスピードを変えるべきだと思います。書籍全部を同じスピードで読んでいたら時間がいくらあっても足りません。例えばビジネス書は全体にざっと目を通した後、気になる箇所だけ拾い読み、小説は初めから、でもスピードを意識して淡々と読み、専門書や学術書は自分の必要な箇所を精読、哲学書は全体を精読、などです。

 本のジャンルによってさまざまな読み方を臨機応変にしていきましょう。

平凡社ライブラリー上巻p.28~29

(2020/09/26) なぜならば、悟性は思考であって、

純粋自我一般だからだ。そして悟性的なものは既知であり、

学と学的でない意識とに共通しており、この共通のものによって、

学的でない意識はそのまま学の中に侵入することが可能だからだ。

 学は、たったいま始まったばかりなので、まだ細部にわたっても

形式上も完成されていないから、その点で非難を受けている。

しかし、この非難が学の本質をついていると考えるなら、

それは正確ではないだろう。それと同じで、

学を完全に形成しようとする要求を容認しようとしないのも、

許可されないだろう。

(2020年9月25日)形式が完成していなければ、

学は一般的な判明性(悟性的であること)が欠損

していることになり、一見したところでは僅少な

個人の秘教的な所有物であるかのように思わせる。

というのは、学がまだやっとその概念の中に現存し、

またはそのうちなるものが現存しているだけなので、

秘教的所有物と述べたのだ。またその表出が十分に

展開されていないため、学の現存が個人的なものと

なっているので、二、三の個人と述べた。

完全に規定されたものであって初めて、公開的なものであり、

概念把握されうるものであると同時に学習され、

全ての人々の所有物になる。学が理解が容易な

(悟性的な)形式を持つことは、全ての人々に差し出され、

全ての人々にとって同等とされた学への途だ。

悟性を通って理性的知に到達するということは

学を志向する意識の当然の要求だ。

精神現象学 リライト3

2020-04-22 15:57:24

テーマ:リライト

(2020年3月6日p.25~)そういう人たちは実体の望む

醱酵に身をまかせながら、自己意識を包み隠し悟性を除去する

ことによって、自らを、眠っている間に神から知恵を授かる

神のいとし子であると思い込んでいる。だから、その人たちが

実際そういうふうに眠っている間に受胎し分娩するのも、

やはり夢だ。

 ところで、現代が誕生の時代であり、新時期になる移行の

時代であるのを見ることはべつに困難ではない。精神は、

これまでの自分の生存と考えとの世界に別れをつげ、

それを過去の中に沈めてしまおうとしており、

自己を作り直そうと努力している。精神はたしかに

安らぐこともなく、常に前進する運動を継続しようとしている。

しかし、子供の場合、長く静かに栄養をとったあとで初めて

息を吸うとき、それまではただ増して行くだけだった

前進のあのなだらかさが中断される。

2020年4月13日

p.26~
つまり質的飛躍がなされる。

そしていまここに子供が生まれてくる。

それと同様に、自己を形づくる精神も、

やおら静かに新しい形に向かって育っていく。

自分の今までの世界という建物の小部分を、

次から次へと取り壊す。だから世界が揺れ動くのは、

個々の前兆によってしか暗に示されないのだ。

現存するもののなかに蔓延している軽率と退屈、

未知のものへの定かではない予感などは、

なにか別のものが近づいているという前兆だ。

全体の様相に変化のなかったこの漸次的な瓦解は、

電光のように一気に新しい世界像をそこにすえる

日出によって、断絶される。
 しかし、この新しいものは、

たったいま生まれたばかりの子供と同じように、

まだ完全な現実を所持しているわけではない。

このことをなおざりにしないことがぜひ重要だ。

初めて登場したというだけでは、

まだやっとその新しいものが無媒介で直接的であるに過ぎず、

ただ概念であるだけだ。[2020/04/20 p.27~]土台が

置かれた時に建物が出来上がっているわけではないのと同様に、

全体という概念にたどり着いたからといっても、

それは全体そのものではない。たくましい幹と、はられた枝と、

茂った葉を持った槲の木を見たいと思っている時には、

これらのものどもの代わりに槲の実を見せられても、

納得はしない。それと同じで、精神の世界の王冠たる学は、

おしまいまでいったからといって完成しているわけではない。

新しい精神の始まりは、多様な自己形成の姿が広大な範囲で

変革された産物であり、様々に入り組んだ道の賜物であり、

また様々な緊張と努力の賜物だ。この端緒は連なり拡大した

途をたどって、自己に帰って来た全体であり、全体が生成し、

単一になった概念だ。

#精神現象学#ヘーゲル#リライト

 

 

 

精神現象学 リライト2

2020-04-22 15:56:20

テーマ:リライト

(2020年1月12日p.24~)超地上的なものだけがもっていた

明るさが、此岸的なものの意味であるとされていた

気味の悪い混乱のなかにもいっぱいになるよう努力し、

在る通りの現在のものに、経験というこの注視に関心を持ち、

意味を見つけるようになるまでには長い時間を要した

(啓蒙主義)。しかしいま必要なのはこれとは反対のことだ。

つまり人の心は地上のものと堅固に結びついているので、

人の心を、地上を超えたものまで高めるには、天国を地上に

引き下ろしたのと同様のくらい無理やりの力が必要なのだ。

精神の示す姿はあまりにも弱々しい。(2020年2月21日p.24~)

だから、砂漠を歩くさすらいの人が、ただ一杯の水を欲しがるように、

元気を取り戻すために、とにかく神的なものを少しでも体感したい

と希っているように思われる。精神がこのささやかなものに

満たされているのを見つけると、精神が失ったものがどんなに

大きなものかが推測される。

しかし、このように享受することを控え、与えることを

惜しんだりするのは、学問にはふさわしくない。誰でも、

信心だけを求める人、己の地上での生存と思想との多様な姿を

霧の中に包み込もうとし、このようなはっきりしない神の姿に

はっきりしない愉悦を求めている人は、自分がどこにそれを

見つけるか考えてみるがよい。そういう人は何かに熱狂し、

それを誇りにする方法を自分の力で簡単に見出すであろう。

だが、哲学は、信心深くあることに注意しなければならない。

(2020年3月3日p.25~)まして、学を思い切る謙遜が、

すなわち前述の感動と混濁とが、学よりも上位のものだと

主張することになったりしてはならない。そのような

予言者的な物言いは、まさに物事の中心点に立ち、

深みにいると思い込んでおり、限定(ホロス)を軽視している。

だから、わざと概念と必然から離脱する、それらは単に、

有限性の中にしか存在しない反省だと捉えるからだ。

しかし空しい広がりがあるのと同じように、空しい深さもある。

また多様を集める力を持たず、ただの力としてあり続けるような、

実質のない深度もある。そういうものは皮相なものと同じだ。

精神の力の大きさは、その外化の大きさと全く同じで、

精神の深さは、精神がその広がりの中で伸び、その中で

自己を失うことができる程度と、全く同じだ。これと同時に、

この概念のない実体的な知が己の我執を実在の中に沈めたと言い、

真摯に哲学を学んでいるとのたまうならば、そこに

隠されているのは、神に頼る代りに、節度と規定を顧みず、

あるときは己のうちに内容の偶然性を、べつのときは内容のうちに

己の恣意を任せておくということだ。

#精神現象学#ヘーゲル#リライト

 

 

 

 

 

 

 

 

      

精神現象学 リライト

2020-04-22 15:55:01

テーマ:リライト

精神現象学 リライト2019-11-09 14:57:03

テーマ:リライト

(2019/10/28 p.23~)洞察よりも信心を与えるべきだということになる。

美しいもの(シラー)、神聖なもの、永遠なもの(シェリング)、

宗教、愛など(シラー、ヘルダーリンなど)は、

喰らいつく喜びを湧き起こすのに要る餌だ。

つまり概念の把握ではなく我を忘れることが、

冷徹に進んでいく事柄の必然性ではなく、

霊感が実体の豊かさを支え、それを常に拡げるものだとされる。

(全体としてロマン主義的な、感傷的な態度をさす。)

(2019/11/09 p.23~)こういう要求に答え、感覚的なもの、

卑俗なもの、個別的なものにとどまることから人々を切り離し、

視線を星の世界に向けさせようとする努力、

はりつめて熱狂的でいら立つ努力が提示される。

人間が神的なものを完全に忘れ果て、

塵と水ごときに満足しているかのようだ。

かつて人々は広大で豊潤な思想と形象を備えた天界を認識していた。

存在するすべてのものの意味は、

自分を天国へと導いてくれる光の糸のうちにあった。

この糸をたどってまなざしは、この現在に甘んじるのをやめ、

現在を超えて神的なものに、つまり彼岸的現在の方に向けられていた。

だから、精神の目は地上のものに向けられ、

地上のものにがんじがらめになることを強いられたのである。

#精神現象学

分量は少ないのに、結構長い期間かけて読んだ。

 不条理文学といわれているが、

通常の論理的一貫性が失われていることなんて

自分には日常茶飯事なのでとても共感できた。

殺人の動機を「太陽のせい」と言うことぐらい、

別にそこまで奇妙なことではないと思うのだ。

しかもムルソーは論理的一貫性がないとは思えない。

殺されるに至る場面の想像、母親の死についての回想など、

順を追って筋の通った思考を展開している。

まあ不条理はナンセンスとは違うのだが、

彼が自分自身の死について考えるシーンなど

極めてまともだと思った。

夏の海辺での美しい風景や暑さの描写は

光り輝くようで素晴らしかった。

日本が騒音だらけになったのは、

優しさという名の同調圧力が蔓延する

この国ならではの土壌によるものだ。

個人が自分自身の立場から「私」の言葉

を発することができない。みんなに迷惑をかけるな、

自分勝手なことをするな。自分がされて嫌なことは

人にするな。これらの不文律はことごとく

「個」の言葉を封じてきた。察するのをやめよう、

語ることをしよう。マイノリティが語ることを聞こう。

「聞く」のは「聞き入れる」こととは異なる。

聞いた上で納得できなければ言葉でもって

「個」の言葉を語ればよいのだ。

個の言葉でこの国がうるさくなるといい。