「高崎市歴史民俗資料館」に出掛けてきた。
今回で3度目の訪問だったが、ブログ投稿も3度目です。前回より懐かしみが強く感じられ、時が過ぎるのを忘れてしまいそうなほど時間をかけて見学した。写真も自由に撮れるので嬉しい。
足踏みミシン
足踏みミシンは今も良く覚えている。いつもは学校にもって行く雑巾などは事前に母が縫って置いてくれるのだが、頼むのを忘れたときなどは母も忙しいので、仕方なく自分でミシンを踏んで雑巾をつくったものである。
写真はお借りしました。
「高崎市歴史民俗資料館」(高崎市)は、県内だけではなく、県外の小学校の校外学習での来館も多いようである。今の小学3年生が半世紀以上も前の暮らしを勉強するのだが、目の前に当時の生活に欠かせなかった本物があるので、とても良い体験ができる展示となっているようである。
昭和20年代終わり頃の居間の風景
家庭内の小物類 炊事場と囲炉裏
蓄音機とレコード(レコードは落とすと割れてしまう)
風 呂
格子になっている奥に釜があり、釜は風呂桶の外から枯れ枝などを燃やして湯を沸かすのである。(格子は熱い釜に肌が触れないようにする)
冷蔵庫(冷蔵庫がない家が殆どだった)
もちろん冷蔵庫は電源などなく、二段になった上の部分に氷を入れて下の部分の食材を冷やした。
製麺機(左)と麺を延ばして切る板
井戸(水がありそうな場所を探し、数メートルほど掘った中に鉄管を入れて、鉄の取っ手を上下に動かして水を汲み上げた)
駄菓子屋は子供たちにとって楽園だった
かき氷をつくる機械(四角い氷を刃の上に乗せ、それを上から押さえつけ、丸い部分の取っ手を回しながら氷を削ったた)
小学校の教室
昭和20年の終戦の年以降は戦地から帰国する兵隊さん多く、たくさんの子供が生まれた。昭和22年から24年生まれの子供たちは「団塊の世代」と呼ばれ、当時は1学級に50人以上の生徒がいたせいで、父兄参観でやってきた親たちは、廊下から教室内の様子を眺めていたという。
団塊の世代(1947~1949年)に生まれた子供の人数はいずれの年も270万人以上だった。(因みに2022年は80万人以下)
当然なことに今のようなゲーム機などない時代であり、夕方早くから神社仏閣や運動場、役場の庭など、子供たちの遊ぶ姿で溢れていたといいます。
オルガンと教科書(当時はどのクラスにもオルガンが置いてあった)
石炭ストーブ(薪は生徒が当番制で家から持参し石炭に火をつけた)
給食の食器は写真のようなアルミ製品だった。
掃除道具と鉛筆削り
(昭和20年~30年代は切り出しナイフで削った)
「高崎市歴史民俗資料館」
来館した子供たちが展示してあるものを実際に触りながら、
電気がなかった頃の暮らしがどのようなものだったか、もし
電気があったとしても、今と昔はどう違うのかを比較しながら
見て回り、その違いを子供たちなりに良く知って欲しいと思う。
高崎市綿貫町992-1