白井城は長尾景仲によって築かれた城です。白井長尾氏は上杉謙信に従っていましたが、謙信没後は北条氏に従ったため、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で前田利家・上杉景勝の軍勢に敗れました。江戸時代には彦根藩主になる直前の井伊直孝が在城していたこともあります。現在も本丸周辺は整備され土塁や石垣、堀などが残っています。(渋川市参照)

 


利根川と吾妻川の合流地点に突き出した舌状の台地に位置し、南北1200m東西800mに広がる頑強な城である。

本丸があった場所

本丸、高くなっている土手の左奥は深い堀になっている。

 

   

    縄張形態     崖端城
    標高 210m
    城郭規模 内郭 外郭
    築城主 長尾影仲
    築城期間 1429年~1441年
    廃城年 1623年
    主な城主 ①白井長尾氏、②本多康重、③松平康長
④井伊直孝、⑤西尾忠永、⑥本多紀貞
    遺構 石垣、土塁、堀
    指定文化財 群馬県史跡
 

 

白井城址(ピンクで塗られた部分)の左側は吾妻川の絶壁↓で敵は攻められない。さらに右側には白井宿、その東に利根川が流れすぐ南で合流しており、攻めることが難しいとされています。

 

                  下記写真の場所

川の上に、右から左へ本丸・二の丸・三の丸・北廓になるが、断崖絶壁であり敵は攻めることはできない。

 

北廓

 

  

三日月堀(みかづきぼり)とは、堀の形状が三日月の形をしています。

 

うお座 チューリップ ちょうちょ

 

 

白井城の近くに寺が二つあり、源空寺には白井城主の本多家の墓がある。びっくり

 

源空寺

 

  

源空寺四脚門              白井城主 本多家の墓

 

 

玄棟院

 

  

玄棟院は地図の左上部にあり、吾妻川絶壁上にある。

 

 

日本国内の甲冑や刀造りで名が通っている明珍信家(みょうちん のぶいえ)が、仕事場として使っていた場所とされている。(北廓近く)プンプン

 

 

明珍は甲冑(かっちゅう)師の一流派。「明珍系図」では、平安時代末に初代出雲守紀宗介(きのむねすけ)が京都九条に住し、近衛(このえ)天皇より明珍の号を賜ったと伝える。17代明珍信家(室町後期)は名工の誉れ高く、ほかに高義(たかよし)、義通(よしみち)も知られ、江戸時代にはこの三工を三作と称して珍重した。(ニッポニカ参照)

 

 

 

 

 

チューリップ 生ビール 音符 星 ハイビスカス

see you