尾瀬の秋・・・この季節の尾瀬は長い冬を前にして、残り少ない時間を見事な錦秋に燃え尽きる。
鳩待峠から山の鼻までの途中
尾瀬の秋は短い。下界で少し涼しくなった頃はもう紅葉が真っ盛りだ。
何処までも続く木道だが、最近は木の厚さや長さも変わってきているようだ。
この作業は環境庁や東電がそれぞれに担当しているらしいが、その長さは何と60km以上にも及ぶというが、老朽化した木道を新しくしても数年後には再び補修をしなければならない。
ヘリで運んだ木道修理の材料
尾瀬の歴史
〇1890年 平野長蔵が尾瀬沼西端の沼尻(ぬじり)に小屋を建てる。
〇1903年 尾瀬ヶ原ダム計画が明らかになると、平野は沼尻の小屋に定住を始める。
〇1908年 平野が尾瀬沼西端の沼尻に尾瀬で最初の「長蔵小屋」を建設。その後平野は
尾瀬沼の漁業権を取得し、ヒメマスなどの養殖を試みるが失敗した。
〇1922年 関東水電(東京電力)が水利権を取得。尾瀬原ダム建設が計画される。
〇1934年(昭和9年) 日光とともに日光国立公園に指定される。
〇1949年 NHKが”江間章子”作詞の尾瀬を扱った曲『夏の思い出』を放送。この曲により
尾瀬は一躍有名になり、多くの観光客が訪れるようになる。
〇1955年 国立公園特別保護地区に指定される。
〇1967年 尾瀬沼でのボート、釣りが禁止される。
〇1970年 尾瀬沼東岸を通り、片品村から桧枝岐村を結ぶ県道沼田只見線の建設が開始
されるが、自然保護運動により翌年、中止される。
長蔵小屋 三代
初代 平野長蔵
初代主人。19歳の時尾瀬を開拓、燧ケ岳の登山道を開く。
「尾瀬沼ダム化計画」の反対を訴願し、天然記念物、国立公園、禁漁区などにして線と各地を奔走。長蔵の訴えにより、自然保護がはじめて社会問題となった。
尾瀬沼
日中戦争勃発後の1938年に国家電力管理法が成立し、当時の逓信省から尾瀬ヶ原発電計画が発表されます。太平洋戦争後においても、ふたたびダム建設計画は進展する状況でした。
尾瀬ヶ原
長蔵の死後、息子の平野長英(1903年-1988年)も反対の意志を唱えます。これを文化人や登山家が支援し、尾瀬の自然保護運動、さらには日本の自然保護運動へと発展しました。
二代 平野長英
二代目主人。登山ブームの中、現在の小屋の礎を築くそのかたわら、自然保護運動に尽力した。父・長蔵の厳しさとは対局の静かな人柄で、歌人としての一面もあった。
三代 平野長靖
平野長靖は、京大卒業後、北海道新聞に就職するも弟の死によって27歳で長蔵小屋三代目を継ぐ。道路建設反対運動においては、環境庁初代長官大石武一の自宅へ赴き直訴して道路建設白紙に大きく貢献。しかし、正式な計画廃止を知ることなく、36歳の若さで冬の尾瀬山中で凍死する。(写真はお借りしました)
政治家、そして観光産業に携わる人たちの利権の為に観光道路が造られようとしたとき、稀にみる自然の破壊の脅威に立ち向かい、結果的に単独の「尾瀬国立公園」設立を成し遂げた礎をつくって頂いた平野三代に敬意を表したい。
(一部ウイキペディア参照)
尚、「尾瀬に生き、尾瀬に死す」は、36年前、北大路欣也、渡辺謙、真野響子などが共演したNHKドラマで放映された。
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