当ブログが初めての方は以下からお読み頂けたらと思います。
ホテル「奈良 さくらいの郷」を後にして一気に高野山に向かいました。
前日夜の予定では、お好み焼き屋でおばちゃんとお客さんからのアドバイスで、
談山神社と大神神社を午前中にまわってからでも時間的にOKという話でしたが、
ホテルで高野山の情報収集をしていたら、ナント、朝から駐車場は満車で、
帰りのバス停も行列が出来ているくらいで、早めのお越しをオススメしますとのこと。
こりゃヤバイと思いましてね、もうこの日は丸1日高野山にしようと決めまして、
朝も早めに出発しました。
結果的にこれが大正解で公営の駐車場はすべて満車でしたが、宿坊の駐車場は
まだ余裕があって無事に停めることが出来ました。
(翌日の11/5の朝も9時頃の時点で駐車場はもう満車でした)
身軽な感じでまずは大門まで歩いてそこからスタートです。
11月というのに20℃越えという気温で半袖の人たちがたくさんいました。
(翌週には雪だったようで、ホントにラッキーでした)
高野山の入口を象徴するような大きくて素晴らしい大門
紅葉も最高潮でした
それから少し歩いて中門に行き、いよいよ壇上伽藍を見て回ります。
(主だったところを載せましょう)
高野山というところは台風や落雷、そして護摩焚き、蝋燭の油からの出火などの
影響で火事の多いところで、多くのお堂が何度も焼失しては再建を繰り返しているんです。
こちらの中門も2015年に高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、
172年ぶりに再建されて、ナント、8代目とのこと。
2015年以前だと未完の壇上伽藍でしたが、この8代目が再建されたことによって
今は完成形を見ることが出来ました。
そして中門をくぐるとその正面には金堂です。
その裏手には御影堂です。
金堂が昭和元年に焼失し再建して以降、この御影堂に火がうつらないように
御影堂の周りには水道の配管が設置されていて噴水のように下から水で守るようになっています。
そしてここを象徴する根本大塔。
この中の立体曼荼羅を見た時は「宇宙とつながってんだろーなー」という気持ちに。
ここを作った空海が京都に東寺を作りましたが、東寺の講堂の立体曼荼羅も
僕は大好きであそこに入るたびにやっぱり「宇宙とつながってんだろーなー」と
感じるものがあります。
僕自身、霊感とかそういうものを感じることは普段まったくないのですが、
こういう場に入ると過去にいくつかのところで「宇宙とつながってんだろーなー」
と感じることがありました。表現が稚拙ですよね(笑)
何か大きなものの中に自分自身も存在しているということでしょうか。
こちらは金剛峯寺です。
本当はここも行きたかったですが、行列だったのと宿坊に戻る時間と、
たくさん歩いたからちょっとふたりとも疲れが出てきたので次回への持ち越しにしました。
で、奥の院に向かいました。
そして奥の院への入口です。
前回来た時はここからのみを見て回ったというのを改めて母から聞きました。
京都から来て他は見る時間が無かったと言ってました。
ここから先もまた高野山のひとつの大きな見どころになっています。
この橋から先は撮影禁止です。
この先の奥の院で今でも空海が生きてお祈りをしているといるといわれ、
朝昼晩と食事が運ばれています。
奥の院の前でツアーでいらしていた団体客が一斉にお経を唱えていましてね、
たまたま偶然でしたが、いい時に遭遇したなぁと。
僕も般若心経を覚えていた時があったので少しだけ一緒に。
これを機にまた改めて般若心経を覚え直そうと思いました。
「遍照光院」さんという宿坊にて。
こちらはまだ空海が生きている時からで歴史ある寺院でした。
大浴場で疲れを癒して夕食を。
その後に我々夫婦だけで「阿字観」という瞑想体験を申し込んでやりました。
実際に空海も瞑想していた広間とのことで、薄暗く静かな空間で・・・。
翌朝は早朝から朝勤行を。
これは宿泊者全員で、勤行を終えてからはこちらの寺院の秘仏をいろいろと
見せてもらいました。
重要文化財とかもあって迫力がありましたよね。
ちなみにこの日の宿泊客の半分は外国人でした。
丸1日かけて高野山を回りましたが、それでも回り切れず・・・。
金剛峯寺と霊宝館は次回ですね。
またタイミングが来たら呼ばれると思います。
(今すぐにでも行きたいけど 笑)
朝勤行が終わって、住職さんから「生かせいのち」という言葉が高野山では
ひとつのキーワードになっていることを聞きました。
確かにあちらこちらで看板などを見かけました。
外国の方たちにも分かりやすいようにシンプルだけど強いメッセージにしたかと。
さちが生きるか死ぬかの瀬戸際から見事に生還してくれて、生死というものを
目の前で感じたのが去年のことでしたから、改めてここで「生かせいのち」
という言葉がストレートに胸に入ってきました。
だから奥の院でこれを見た時に撮っておいたのだと思います。
今回の旅は言わばこの「生かせいのち」に集約されるかと思いました。
人生なんて振り返れば一瞬でしょう。
そんな人生の中にも春夏秋冬があって山あり谷ありの時期があると思います。
何かしら縁があって今この場所で自分という存在で生きています。
せっかくの命がありながら死んでいるかのように命を無駄にしている人も
中にはいるかも知れません。
自死する人もいれば人を殺す人もいます。
何かに巻き込まれて亡くなる場合もあるでしょう。
どんなことになろうとも、後悔のない、悔いのない人生を送ることができたならば
自分の命を生かせたのかなと思うのです。
闘病記を書いている方たちはおそらくですが、命と真正面から向き合っているから
書いているのだと思います。
命と向き合わなければ闘病記は書けませんからね。
命は残念ながら終わりがきます。
だけど命尽きるまで、僕らは僕らの生命力を信じて「生かせいのち」の精神で、
今を生きていることに感謝して、また明日から生きていこうと思います。